竹内譲次が語るバスケ部時代vol.3「高校ラストイヤーに勝ち取った2度の全国優勝」

2016/11/18
Bリーグ&国内
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文=泉誠一 写真=野口岳彦

『バスケット・グラフィティ』は、今バスケットボールを頑張っている若い選手たちに向けて、トップレベルの選手たちが部活生時代の思い出を語るインタビュー連載。華やかな舞台で活躍するプロ選手にも、かつては知られざる努力を積み重ねる部活生時代があった。当時の努力やバスケに打ち込んだ気持ち、上達のコツを知ることは、きっと今のバスケットボール・プレーヤーにもプラスになるはずだ。

PROFILE 竹内譲次(たけうち・じょうじ)
1985年1月29日生まれ、大阪府出身。双子の兄・公輔(栃木ブレックス)とともに日本を代表する207cmのビッグマン。2015年、自分の限界に挑んだアジア選手権では平均15.6点、11.9リバウンド(アジア2位)の活躍でチームを引っ張り、日本代表をオリンピック世界最終予選へ導いた。9シーズン在籍した日立サンロッカーズ東京(現・サンロッカーズ渋谷)からアルバルク東京へ移籍し、Bリーグ元年を迎える。

身長が低い選手との1on1でプレーの幅を広げた自主練習

高1の時の身長は196cm。でも、体重は80kgちょっとしかなかったので、まずは体を大きくして自分の弱点を埋めたいという気持ちが強かったです。当時は知識もなかったですし、教えてくれる人もいなかったので、自分で本を読んだり勉強してやってました。今思えば、もっと効率的なやり方はあったと思います。トレーニング設備も最低限しかなく、バーベルやダンベルがある程度のところで、ベンチプレスやスクワットをしてました。

中3の時の先生が、「公輔よりも器用だから、外のプレーも練習していった方がいい」とアドバイスしてくれました。公輔がいたので、インサイドだけではなくアウトサイドからもできるようになりたいと思って、練習後は自分よりも身長が低い選手と外からの1on1をしてました。

高校の先生も一つのことにこだわらず、いろんなことをできるよう指導してくれて、むしろセンターとは違うプレーをしても、とがめられることはなかったです。いろいろやってみろと言ってくれたことで、自分のプレーの幅を広げることができました。

ビッグマン豊作の時代に出会ったライバルたち

初めて全国大会に出たのが高校1年の時のインターハイ。試合には少ししか出られなかったですが、能代工業の高久順(栃木ブレックスや京都ハンナリーズでプレー)は同じ1年生なのにガンガン試合に出ていました。中学の時からすごい選手と言われていたので、負けたくないという気持ちが強かったです。

また、近畿であれば東住吉工業の佐藤託矢さん(京都ハンナリーズ)や育英の大西崇範さん(パナソニックトライアンズや東芝ブレイブサンダース神奈川でプレーし、昨シーズン引退)だったり、身近に大きい選手がいたので、その先輩たちに追いつきたい気持ちでやってました。

僕と公輔が洛南で本格的に起用されるになったのは高校2年からです。高1の時もちょくちょく試合に使ってはもらっていましたが、まだ体もできていなかったですし、作本先生は練習で伸ばそうという考えだったと思います。

高校時代、必ず壁となって立ちふさがった能代工業

一番思い出深いのは、初めて全国優勝した高校3年の時の国体です。その前のインターハイは勝てず、あの当時はベスト4に入れれば良いと思うスタンスでしたが、国体は快進撃で勝ち上がりました。全試合10点差くらい差を付けて勝って初優勝でき、喜びも強かったです。

高校時代はずっと、能代工業に苦汁を飲まされ続けていました。ベスト4の前に能代工業が必ず壁となって立ちふさがり、毎回負けていました。そういう意味では、最後のウインターカップで優勝したこと以上に、準決勝で能代工業に勝った(73-71)ことの方ががうれしかったです。

最後のウインターカップは東京体育館が改修工事で使えず、代々木第二体育館で行われました。試合前からお客さんがすごい並んでいたのを僕たちも見ていたし、覚えています。当時は注目されているという考えはなく、「人が多いなぁ」くらいにしか感じてなかったです。でも、今思い返すとすごいことであり、うれしいことで、楽しかったですね。

バスケット・グラフィティ/竹内譲次
vol.1「中学時代に真似て練習した『教科書』は鵜澤潤選手」
vol.2「全国のライバルたちとの遭遇」
vol.3「高校ラストイヤーに勝ち取った2度の全国優勝」
vol.4「常に上を見て努力を続けたビッグマン」