
太田敦也はBリーグ以前の時代から日本を代表するセンターとして活躍し、bjリーグで3度の優勝に貢献した。2016年のBリーグ発足時は32歳ですでにベテランの年齢だったが、地元出身の『チームの顔』として三遠ネオフェニックスを引っ張った。その太田が2024-25シーズンを最後に現役引退を決断。フェニックス一筋で18年のキャリアを締めくくり、引退後はフロントに転身する太田に、今の思いを語ってもらった。
「あのチームの一員としてやれたのは本当に誇り」
──まずは長い現役生活お疲れ様でした。引退を公表した今の気持ちはどんなものですか。
ありがとうございます。意外とすっきりしています。
──40歳で迎えたラストシーズン、年齢的な衰えを感じることはありましたか。
やっぱり最近は衰えを感じてはいました。自分が思ったような反応ができない、そういうもどかしい感じがすごくありました。その中でもやれることをやらなきゃいけないと考えてプレーしていたのですが、自分が思うようにはやれなかったのが現実です。
──それでもチームは素晴らしい結果を残しました。ただチャンピオンシップは残念な結果に終わりました。
自分が不甲斐なかったですね。ですが、最後のシーズンに貴重な経験をさせてもらった形になって、とてもありがたかったです。あのチームの一員としてやれたのは本当に誇りだなと思いました。最後は思い描いた結果にはならなかったですが、各々が本当に全力を尽くした結果だったと思います。
──2024-25シーズンは少なからず危機感を持ってプレーをしていたのでしょうか?
そうですね。試合に出られずワークアウトを続ける日々だったので、頭の片隅に『引退』という言葉はありました。引退すべきか妻に相談したのですが「最後は自分で決めなさい」と後押ししてもらいました。プロとして活動していますが、実態はオーエスジーの社員としてアマチュア契約でプレーをしていて、ここから外に出るという選択肢は難しいので、変に悩むことなく決められました。
──他のクラブで現役を続行する考えはありませんでしたか?
現役を続けていた中では、他に行こうと考えたこともありましたが、この年齢になって移籍は考えられませんでした。チームに愛着があって、他でプレーをしている姿が想像できないですしね。例えばですが、僕がアルバルクのユニフォーム着てたら違和感しかないでしょう(笑)。それよりも、キャリアを長く続けられたのはチームが雇ってくれていたおかげなので、今度はフェニックスを盛り上げるために、自分自身を使って恩を返すことが必要だと考えています。

「どうやって自分の価値や必要性を見いだしていくか」
──18年間の現役生活、bjリーグ優勝やBリーグの発足、日本代表でのプレーなど数えきれない経験をしてきましたが、一番最初に思い浮かぶ『良い経験』は何でしょうか。
良い経験……辛いことはいっぱい思い付くんですが……(笑)。やっぱりbjリーグでの3度目の優勝でしょうか。1回目と2回目は先輩たちや周りの人に引っ張られて優勝をさせてもらった感覚なのですが、3回目は自分もしっかりとプレーでチームに貢献してつかみ取った優勝で、心の底からうれしかった覚えがあります。
──辛かった経験の中でも一番のものは?
それこそ中村和雄さんの時代ですね、和雄さん、キツいんですもん(笑)。「365日怒られる」というのが本当に比喩じゃないんすよ。リアルに365日怒られてて、まあ僕もよくメンタル面で頑張れたなって褒めてあげたいぐらい。それでも和雄さんが辞めるとなった最後の1カ月は、限られた時間の中で成長させようとしてくれたようで、指導も一段と厳しくなって胃が痛くなる日々が続き、胃薬を飲みながらやっていました(笑)。ただ本当に追い込んでやってくれたのはあの人だけで、今となってはしっかり向き合ってくれたことに感謝しかありません。
──日本代表のインサイドを長らく支える一人でした。日本代表でプレーすることは太田選手にとってどんな意味がありましたか。
バスケをする以上は、オリンピックに出ることが夢でした。それに近づいた初めての瞬間は本当にうれしかったです。以前の日本代表はインサイドが弱くてリバウンドが取れないと散々言われていましたが、竹内兄弟(公輔、譲次)や青野文彦さん、伊藤俊亮さんたちと切磋琢磨して高め合うことができたのは本当に良い経験でした。
──近年は日本代表が結果を出すようになり、Bリーグのレベルも一気に上がりました。プレーする上での危機感はありましたか。
危機感は持っていました。最近は僕のような古いタイプのセンターがいなくなって、身長は高くてもオールラウンドにプレーできる選手がどんどん出てきて、昔のようなセンターの需要がなくなる中で、どうやって自分の価値や必要性を見いだしていくべきかは常々考えていました。
実際、Bリーグができて発展していく中で、ニック・ファジーカスやアイラ・ブラウンなど帰化選手のレベルも高くなり、身体的にも技術的にも優れた選手が増えて、日本人ビッグマンの枠はどんどん狭くなりました。そこに危機感を持ちながらも、逆にこのレベルで戦えるようになれば日本のバスケはもっと強くなれるという確信もありました。リーグのレベルがここまで上がってきた今、若い世代はもっともっと成長してくれると期待しています。

「皆さんと駆け抜けたことが本当にうれしかった」
──バスケットボール人生の中で感謝したい人は誰ですか。
選手としては鹿毛誠一郎さんです。自分のやりたいことも含めて多くを捨てて、いろいろ練習から指導したり、プライベートも付き合ってくれて、本当に支えてくれていました。
コーチとしては、もちろん和雄さんです。僕は本当にポンコツだったので、あの人がいなかったら18年間もやれずに、もっと早く終わっていたはずです。それぐらい僕のバスケットボール選手としての土台をしっかり作ってくれたのが和雄さんでした。
──引退後は三遠のフロントとして活動することになります。どんな役割を担うことをイメージしていますか。
バスケしかやってこなかった人間ですから、41歳にして社会人経験がほぼゼロなんですよ。過去のオフシーズンにはオーエスジーの社員として働いて、定時に上がって練習に向かう生活もしていましたが、またイチから勉強し直す覚悟です。
自分を育ててくれた三遠の地域のためにも、まずは営業からチームの経営に貢献できるという実績を作って、チームが円滑に活動するためのサポートができれば、ブースターの皆さんやスポンサーの方々に恩返しができると考えています。引退して役割は変わりますが、また『縁の下の力持ち』と言ってもらえる仕事をしたいと思います。
──最後に、これまでバスケ選手としての太田敦也を応援してきた皆さんへのメッセージをお願いします。
皆さんがいなかったら18年間もバスケを続けられなかったでしょうし、やれていたとしても楽しくなく、ただやってるだけだったと思います。皆さんと駆け抜けたことが本当にうれしかったです。
そういう気持ちがあるから、引退の発表はちょっと申し訳ないなと思っていて、みんなの前で華々しく、「最後の試合です」って言えなかったのは本当に心苦しいというか、申し訳ないなという気持ちでいっぱいでした。それでも僕自身、最後まであがいてやった結果として引退を決めたので、そこは理解していただけるとうれしいです。
ブースターやスポンサーの皆さま、会社の方々には本当に感謝していますが、何より一番のお礼を伝えたいのは家族です。帰ったら子供たちがいて、試合を見に来てくれて「お父さん、勝ったね」と言ってくれるのが本当にうれしかったですし、「また負けたね」という言葉も頑張らなきゃと奮起する力になりました。そして、どんな時でも「行ってらっしゃい」と送り出してくれたのが妻で、支えてくれたことに感謝しかありません。ここから第二の人生で、また迷惑をかけるかもしれませんが、ここまで支えてもらった分、ちゃんと頑張って働いて家族にも還元したいと思います。
最後に、三遠ネオフェニックスはスポンサー様やブースターの皆様で作り上げているものなので、これからも「三遠ここにあり」と言われるようなクラブにしていきたいです。ご支援、ご声援をお願いします。また会場でお会いした時は温かく迎えてください。