文=泉誠一 写真=野口岳彦

『バスケット・グラフィティ』は、今バスケットボールを頑張っている若い選手たちに向けて、トップレベルの選手たちが部活生時代の思い出を語るインタビュー連載。華やかな舞台で活躍するプロ選手にも、かつては知られざる努力を積み重ねる部活生時代があった。当時の努力やバスケに打ち込んだ気持ち、上達のコツを知ることは、きっと今のバスケットボール・プレーヤーにもプラスになるはずだ。

PROFILE 竹内譲次(たけうち・じょうじ)
1985年1月29日生まれ、大阪府出身。双子の兄・公輔(栃木ブレックス)とともに日本を代表する207cmのビッグマン。2015年、自分の限界に挑んだアジア選手権では平均15.6点、11.9リバウンド(アジア2位)の活躍でチームを引っ張り、日本代表をオリンピック世界最終予選へ導いた。9シーズン在籍した日立サンロッカーズ東京(現・サンロッカーズ渋谷)からアルバルク東京へ移籍し、Bリーグ元年を迎える。

スタメンで出るようになったのは自分たちの代になってから

本格的にバスケを始めたのは中学1年の時からです。小学校までは勉強に重きを置いていて、学習塾に通っていたので、あまりスポーツに時間を割くことができませんでした。中学から本格的にスポーツをやりたいと思っており、何をやろうか迷っていた時に、友達がバスケ部に入ると言ってたので、僕も一緒にやろうと思って始めました。

入学した時は176cm。バスケ部の上級生から目を付けられ、勧誘も多かったです。当時の佐井寺中バスケ部は吹田市内で3位くらいで、そんなに強いチームではありませんでした。入部当初は外を走ってばかりで、面白くなくてサボったりしてました。でも、夏休みは体育館で練習することができたんです。そこからメッチャ楽しくなって、夏休み以降は1回も練習を休むことはなかったです。

身長もまだ伸びていたので、今振り返って考えれば身体的機能が付いていってなかったんだと思いますが、全然うまくできなかったです。ボールの扱いも下手でしたし、飛ぶのも走るのも苦手。運動全般が苦手な時期だったので、なかなか上達せずに苦労しましたね。幸い、成長期のヒザ痛などは一切なく、そこは全く苦労しなかったですし、休むことなく練習にも参加できました。軽い捻挫をして、1週間安静にするように医者に言われても、言うことを聞かずに練習に参加するほどのめり込んでいました。

スタメンで試合に出るようになったのは先輩たちが抜けて、自分たちの代になった2年から。本当にデカいだけの選手で、ジュニアオールスター(毎年春休みに行われる各都道府県を代表する選手による選抜チーム対抗全国大会)の大阪選抜チームにも選ばれないぐらいのレベルでした。

中学3年生の時に赴任してきた『恩師』との出会い

中3になって、バスケ部の顧問が変わりました。当時は、どこの学校の先生でも教えてなかったようなフックシュートやフェード・アウェイシュート、そしてステップもいろいろ教えてくれてました。そうなるとプレーの幅が広がり、いろんなことができていき、バスケが一層面白くなっていきました。自分の技術が驚くほどレベルアップしたと今でも自信を持って言えるくらいの時期であり、その先生のおかげです。感謝しています。

あとは高校生の大会のビデオを買ってよく見ていました。当時、鵜澤潤さん(名古屋ダイヤモンドドルフィンズ)が高校界ではセンターとしてすごく活躍されていたので、市立船橋高校のビデオを何回も見てステップの真似をして練習してました。それが試合で使えるようになるとさらに楽しくなっていく、上達することに喜びを覚えていた時期でした。鵜澤さんが僕の教科書でした。

当時、田臥さんが高校バスケをフィーバーさせていた時期でしたが、ポジションが違うのでそこまで興味はなかったです(笑)。やっぱり身長が高い鵜澤さんが手本でしたし、技術がすごく秀でていたところに目を引かれて、本当に100回以上ビデオを見直していました。

バスケット・グラフィティ/竹内譲次
vol.1「中学時代に真似て練習した『教科書』は鵜澤潤選手」
vol.2「全国のライバルたちとの遭遇」
vol.3「高校ラストイヤーに勝ち取った2度の全国優勝」
vol.4「常に上を見て努力を続けたビッグマン」