取材・写真=古後登志夫 構成=鈴木健一郎

2008年3月に定年退職を迎えた福岡大学附属大濠の名監督、田中國明。教え子の片峯聡太を迎え入れて後継者として指導の第一線は退いたが、自身は今も『総監督』として毎日部活に顔を出す。本人曰く「楽しみで、毎日行ってしまう」とのこと。「子供たちはヘッドコーチのことを信頼しているから、僕はあんまりごちゃごちゃ言わん。変なおじさんが来たと思われているかもしれんね」と笑うが、学校や父兄、OBのバックアップなどチームをサポートする側のまとめ役として片峯監督を支え、選手たちの成長を見守っている。

高校バスケ指導者の『生きる伝説』と言っても過言ではない田中國明総監督に話を聞いた。

[INDEX]ウインターカップ2017プレビュー 出場校インタビュー

昭和40年から続く指導者キャリア

──福岡大学附属大濠で長く指導をされてきましたが、指導歴はどれぐらいになりましたか?

昭和40年からだから、もう50年くらいですね。

──もともとバスケットボールの指導者になるつもりで教員になられたのですか?

大濠の初代校長が僕を訪ねて来たのが最初のきっかけです。僕は国士館大の学生で、担当教授と一緒に面談をして、「大濠は伝統校なのにバスケ部が弱いから強くしたい」と言われたんです。たまたまですが、担当教授と大濠の初代校長が同じ朝倉高校の出身で、大濠で剣道を教えていた先生が国士館大のOBだったり、そういう縁があって、国士館のバスケットボール部でキャプテンをやっていた僕に話があったんです。僕はもう教職を取って、福岡県の採用試験で合格していたので、大濠に行くことに決まりました。

──最初はやはり苦労も大きかったですか?

大学の時も一生懸命バスケットに取り組んでいましたが、プレーすることに一生懸命なだけでしたから、卒業して指導者になっても、どう教えたらいいのか分からない。理論的な指導法を学んだわけではないし、指導法の本なんかない時代ですから、選手としての自分の体験だけで指導していました。ただ長く練習すればいいというスタートでした。

最初は長く練習することもできなかったですね。当初は体育館がなく、バスケットコート半面ぐらいの講堂が練習場所で、しかもバレーボール部と体操部と共同です。なのでバレーボール部もバスケット部も外で練習していました。当時は「毎日5時間練習できれば勝てるのに」と思っていました。

2年目にたまたま良い選手がいたので秋田インターハイに出場できたのですが、2回戦で日大山形に負けました。その何年か後にもインターハイに行っていますが、やはり2回戦止まりの実力しかなかったです。

──どこかでブレイクスルーというか、転機があったのですね。

転機となったのは昭和48年です。翌年に福岡インターハイがあるということで、県として筑波大の笠原(成元)先生をアドバイザリーコーチに招いたんです。そこで今で言うウインターカップでベスト8になりました。

その時の選手たちは身長もあったし、基礎的なことは教えて走ることもできました。笠原先生が教えてくれたのはディフェンスの理論、戦略の面ですね。もう一つ、長時間の練習は必要ないということも教えてもらいました。集中して練習できるのは2時間半だから、その時間で集中して効率の良いバスケットをやろう、ということですね。

──それからは軌道に乗った感じですか?

48年にベスト8になって、49年に優勝したんですよ。「これなら簡単だな」と思いましたが勘違いでした。優勝すれば良い選手が勝手に集まってくると思っていたのですが、そんなに簡単ではありません。次の年は全然ダメで、インターハイには行きましたがまたダメで。やっぱり良いチームを作るには、良い選手を良い指導の下に育てなければいけないんです。

スカウトする際に見るのは、走る、跳ぶ、投げるという部分。どういう先生がどういう指導をしていて、高校に入って本格的な指導をした時に伸びるかどうかに注目します。見るだけでなく調査もします。ミニバスの先生、中学の先生、外部のコーチであれば卒業生を通じて連絡を取ったり。いろいろ調べて、直接話を聞いて決めるようにしています。

「くそーっ」という気持ちをバスケットで出す

──プレーヤーとして成功する選手に共通する要素はありますか?

やっぱり我慢強い子やね。僕から怒られても「くそーっ」って思って。その気持ちをコートで、バスケットで出せる選手は上達しますよ。1年でも2年でも3年でも、しっかり我慢していろんなことを身に着けて、自分の財産を作っていくんです。多くの生徒が県外から大濠にやって来て、親元から離れて寮生活をします。学校の勉強もやらんといけない。もちろんバスケットもやる。あらゆる面で耐えなきゃいけないんです。

──バスケの能力はあってもヤンチャだったり、いざ入学して来たら「あれっ?」と思うこともありますか?

それはありますよ。ただ、部としてのルール、学校のルールがあるから、それは守りなさいと。そこは厳しくやっていました。僕は学校ではずっと生活指導をやっていたので、ちょっとヤンチャな子は僕の顔を見ると逃げていくんです。でもバスケ部の選手であれば体育館から逃げ出すわけにはいきません。よっぽど態度が悪かったら「お前はもう帰れ」と体育館から出します。きちんとやっていれば普通そうはならないですが。

──大濠は文武両道でエリート校のイメージがありますが、昔はそうでもなかったのですか?

学校の発展とともに生徒も良くなりました。もう一つは、バスケ部に入ってくる生徒の意識がものすごく変わりました。最初から大学や実業団、今で言うBリーグでやろうという意思を持って入って来る。目標のレベルが高い子はヤンチャなことはしません。

──バスケの指導を半世紀やってきて、どうやってモチベーションを維持してきたのですか?

バスケットが好きだったからですよ。普通は年齢を取って、いろいろ趣味ができて、そっちに入るんです。だけど僕は趣味がないから。だから生活の一部がバスケットでずっとやっています。生活のリズムはずっと変わりませんね。

──負けたら落ち込みますよね。そこからどう立ち直りますか?

それをいかに次の目標にするかです。インターハイで負けたら次はウインターカップ予選で頑張ろうと、そのために必死にやるわけです。学年ごとに見れば、毎年楽しみな選手がいるじゃないですか。だから目標を掲げてチームを作っていく、そうやって自分のモチベーションを上げていくんです。インターハイに行くことは最低限の目標、あとは常に全国大会でベスト4を狙うということです。

みんな一生懸命にバスケットをやりますが、全員が勝てるわけじゃありません。優勝したからと言って全員がBリーグの選手になれるわけでもない。でも、高校時代の成績がそんなに良くなくても大学で伸びる子もいます。練習の取り組み方だったり、技術的なうまさだったり。伸びる子はやっぱり光るもの、他とは違うものを持っています。

大濠を率いて半世紀、田中國明のコーチ哲学(後編)「勝負事は勝たにゃいかん」