田中敬

報徳学園は4年ぶり2回目の出場となった2018年のウインターカップでベスト8に進出、昨年大会でもベスト8に進出した。また昨年のインターハイでは4強まで勝ち上がった。1年生から主力としてプレーしていた選手たちが3年生となった今年は『勝負の年』。しかし、新型コロナウイルスの感染拡大によりインターハイの開催が見送られ、このウインターカップが最後の大会に。「1回しかない全国大会に懸ける気持ちは大きい」と語る田中敬コーチに、チーム作りのポリシーと大会への意気込みを聞いた。

「未練タラタラでした(笑)」で選んだ教員の道

──まずはプロ選手経験もある田中コーチが教員になるまでの話を聞かせてください。

私は兵庫県出身で、普通の県立高校に進学したので県大会にも出られず、強豪チームの試合に足を運んでは「ああなりたいなあ」と指をくわえて眺めていました。大学は大阪体育大で、今はインカレに行くようなチームですが、私の時は関西の1部にいるのがやっとのチームでした。私が3年の時に2部に落ちる暗黒時代があり、4年にキャプテンとして1部に上げて引退となりました。

その当時はプロという概念が日本国内にはなかったので、実業団でプレーするのが夢でした。それでブロンコスのトライアウトを受けて合格しました。1年目はサテライトのBチームで過ごし、2年目でトップチームに登録してもらい、日本リーグで1シーズンプレーしました。ちょうどbjリーグに切り替わるタイミングで、女子で力がある神戸龍谷でアシスタントコーチのお誘いをいただき、bjリーグに挑戦するか兵庫に戻って教員をするかの選択で、教員の道を選びました。

──そこでプレーヤーとしては現役引退ですが、良い意味できっぱりと切り替えることはできましたか?

いや、未練タラタラでしたね(笑)。ただ自分の実力とこれからのことを考えれば、教員として頑張るべきだと切り替えました。神戸龍谷で2年やった後に縁があって報徳に来て、今が13年目になります。

──指導者のキャリアを積む中で、どんな手応えを得られていますか?

今も勉強の毎日ですが、ようやく自分のバスケットのカラー、こういうバスケットをしたいというのがこの4、5年で固まりつつあって、それに向けて必要な知識を得て、それに合う選手を集めるというチーム作りがこの何年かでできるようになりました。最初は神戸龍谷で、私は女子のバスケのことは何も知りませんでした。そこで女子の細やかさを知りましたし、気持ちの持って行き方、練習の入り方は男子にも応用できたので、すごく勉強になりました。

報徳に来て最初の数年は選手も技術的に未熟だったし、ファンダメンタルを重視してディフェンス中心のチームを作り、勝っても負けても精一杯走り切ろうとしました。選手も一生懸命だったし私もヘッドコーチになったばかりで必死でしたから、大変ですが充実していたと感じます。その後、いろんな角度からバスケットを勉強して、いろんな指導者の方に教えていただいて、ようやく形になってきたと思います。

オフェンスに関しては選手の特性を生かしたい。ディフェンスは機動力があってハードで、目的意識をしっかり持ったディフェンスをしたいです。昔はがむしゃらにやっていましたが、それが具体的な形になり、練習にも落とし込めるようになりました。

田中敬

「バスケ以外の大事なことも教えられる指導者でありたい」

──選手たちにバスケットボールを教え、チームを作る上で大事にしていることは何でしょうか?

まずは選手の能力を伸ばす、最大限に引き出してあげることが報徳学園バスケットボール部のミッションになります。今はBリーグがあり、地域リーグもクラブもあるので、高校で燃え尽きて終わってしまうのはもったいないと思います。力のある選手は大学に行き、その上も目指してほしいですし、そういう可能性を持っている選手も実際に何人かいます。

そうなると、報徳学園バスケットボール部としては3年間でピークを作りたいのですが、大学でも活躍できるような基盤固めにチームのバスケが位置付けられていないと良くないですよね。そこは一つのコンセプトになっています。もう一つはバスケットボールをツールとして、人として成長してもらいたい。ルールやマナーを守る、人に優しくできたり協調性だったり、そういうことをバスケットボールを通じて学んでほしいと思います。この2本柱ですね。

バスケを通じての人間教育と言いますが、バスケが上手いだけでは立派な人とは言えません。バスケが下手でも社会に役立てる人間はいますし、人に優しくできる人にもなれます。つまりバスケがすべてではないですよね。選手の多くが「バスケにすべてを懸ける」という気持ちでやっています。それは本人の選択でもあるし、懸ける価値のあるスポーツだとも思っているのですが、バスケを教えるだけでなく、高校生という大切な時期にバスケ以外の大事なことも教えられる指導者でありたいです。それは私が中高で指導者に恵まれたことが大きいですね。

──日本リーグでプレーするのと、高校生を指導するのとでは、同じバスケでもアプローチは全然異なりますよね。プレーヤーとして上を目指した経験は何らかの形で今も生きていますか?

私も端っこですけど日本リーグで試合をやらせてもらって、代々木でパラパラとですけどお客さんが入っている中でプレーすれば、「このステージは特別なものだ」と感じました。今もBリーグを家族や子供たちと見に行ったりしますが、自分の教え子がプレーしていると想像すると、勝敗や自分の結果がどうであれ、お客さんを常に笑顔にさせられる選手であってほしいと思います。それは僕が日本リーグでやっていた頃の岡田卓也さんの影響ですが、周囲に気を配ることのできる選手になってほしいです。お客さんだけじゃなく、会場を作ってくれるスタッフもいますよね。自分が試合をする場所、自分を輝かせてくれる場所を作ってくれる人に感謝の気持ちを持つことができる、そんなプロ選手を育てたいです。

当時のブロンコスは本当に雰囲気が良いチームで、今も交流があります。チームメートからも、越谷アルファーズの青野和人アソシエイトコーチやレバンガ北海道の小野寺龍太郎AC、中京大学の松藤貴秋監督、岐阜の冨田高校の村田竜一監督など多くの優れた指導者が出ており心強い限りです。

──選手としてプロを経験して、今度は指導者としてプロの世界に挑戦したいとは思いませんか?

個人的に高いレベルのバスケットを勉強したいという思いは持っています。ですが、今はまずは報徳学園でこれから羽ばたいていく選手たちをこの3年間でできる限り指導したい、報徳を選んでくれた選手たちの能力を伸ばしてあげたいという気持ちが強いので、そこまで先のことは考えられないですね。