ライバルを見付けてバスケにのめり込んだ少年時代
西宮ストークスが今シーズン掲げる唯一にして最大の目標は『B2制覇&B1昇格』。そのためにこのオフは、積極的な補強をいくつも敢行した。中でも大きな目玉となるのが今野翔太の獲得だ。プロ14シーズン目を迎えた今野は、Bリーグとなってからの過去4シーズンはB1の大阪エヴェッサで主力としてプレーした。
キャリアの中期は得点が取れる日本人選手として活躍した一方で、近年は守備面で力を発揮し、日本代表級の選手や体格に優る外国籍選手をも封じ込める。そのディフェンス力をして『エースキラー』なる異名まで付けられているほどだ。
そんな彼は1985年3月29日、大阪府摂津市出身。バスケットボールは小学校5年生で始めた。主なきっかけは2つあり、一つは地元の友達がミニバスをやっていて誘われたこと。もう一つの理由は『鉄壁筋肉丸』である今の彼の姿からは想像もつかないことだった。
「その頃の僕は運動らしい運動をしていなくて、ちょっと太っていたんです。母親には何かスポーツをやりなさいと言われていたし、僕も『このままではアカン』と思っていたところに、友達が誘ってくれたんです」
それまで休み時間は教室で過ごしていた。ところがバスケを始めた途端に、冬でも半袖で運動場を走りまわり、休み時間はドッジボールと活発な子どもに変わった。だけど友達に誘われて始めたバスケは、最初から楽しかったわけではなかった。
入団したのは、練習からとにかく走るチームだった。運動をしていなかった翔太少年は練習についていけず、1カ月でリタイア。その後コーチに呼び戻されて再開すると、頑張るためのモチベーションを見つけた。それは彼のバスケ人生で、もしかすると最初のライバルといえる存在との出会いだった。
「年下の小学校4年生なのに、すでにチームでエースの子がいました。その子は朝の6時に学校に来て運動場を走ったり、シューティングをしていたそうなんです。それを聞いて『スゴいな、カッコいいな。自分もマネをしよう』と思ったんです。そこから、バスケにのめり込んでいきました。その子が6時に来るなら、僕は10分でも5分でも早く行ってやろうと、勝手に門を登って学校に入ったりしていましたね。そうしているうちに上手くなってきて、どんどんバスケが好きになっていきました」
結婚して飛躍、バスケを離れれば『子煩悩なパパ』に
地元の中学から、バスケ名門校ではない普通の公立高校に進む間もバスケを続けた。転機が訪れたのは、高校3年生の夏。もうバスケから離れるつもりで受験勉強をしていたところに、大阪学院大からセレクション受験の話が舞い込んだ。「とりあえず、受けるだけ受けてみようか」と軽い気持ちで受験すると、まさかの合格。入学してからの4年間はバスケ中心の生活を送り、その中での一番の思い出は、4年次に大阪学院大を初のインカレ出場に導いたことだ。
「頑張って練習をしてきて良かったと、心から思いました。チームメートとみんなで泣いて喜んだのを覚えています。本戦は1回戦が20点差ぐらいで負けててる時に、1回生の選手がすごい活躍をしてくれて、なんとか逆転勝ち。でも2回戦で日本体育大に負けました。たしか、30点差ぐらいでしたね」
今野自身はこの大会で、1試合で30得点以上する活躍。大学3年生の頃にはプロ選手になることを卒業後の進路に見据えていて、インカレで関東の選手相手に自分のプレーが通用したことで手応えを得た。しかし高い得点力を示す実績を残しても、彼の名は中央に轟かなかった。「これでバスケを終わるのは、もったいない」。そう思っていたところに、大阪学院大バスケ部の監督から、bjリーグのトライアウトを受けることを勧められた。
「実は就活をして、内定もいただいていたんです。だけど、挑戦してみようと思ってトライアウトの受験を決意しました。自分でも、思い切った決断だったと思います。母親は嘆いていましたけど(笑)」
そして大学卒業後の2007年に、ドラフト外で大阪エヴェッサに入団。キャリアの初期は彼自身が成長過程で、与えられる役割が定まらなかったこともあり、得られるプレータイムはごく限られたもの。思うようにならず、気持ちが真っ直ぐバスケに向かない難しい時期もあったが、それでも努力することは欠かさなかった。そうして中心選手といえる存在になったのは、プロになって4年目から5年目の頃。それ以降は故障を抱えたシーズンをのぞいて、ほぼすべてで1試合平均20分以上コートに立つ主力選手になった。
飛躍の契機になったのはこの時期に結婚し、ほどなくして、一人息子をもうけたこと。「早く結婚したいと思っていたんです。当時の私生活は自分から見ても、ちょっとルーズなところがありました。結婚して良い生活を送れば、良い結果も出るんじゃないかと思っていて、結婚したらホンマにその通りになったんです。練習にも身が入るし、夜更かしもしなくなって、ご飯もしっかり食べるようになった。家族ができて子供も生まれてからは、バスケットを上手くなりたい、活躍したいと思う動機が明らかに変わりました。それまでは、自分のためだけにやっていたんです」
子どもが幼稚園に通っていた頃は送り迎えをし、練習を終えて帰宅すると風呂にも入れるなど子育てにも積極的に参加。息子が小学生になった今も、時おりSNSに子どもの写真をアップするなど、子煩悩なパパぶりを見せている。
「優しさが勝負の局面で短所になりかねないんじゃないか」
長く在籍した大阪を離れ、今シーズンからはストークスの一員になる。チームを移籍して迎える今シーズンを、彼は「自分にとって新しい挑戦」と位置付ける。新たに緑のユニフォームに身を包んで挑むミッションは、チームをB2からB1に引き上げること。プロになって初めての挑戦に、35歳のベテランは少年のように目を輝かせる。
「めっちゃやり甲斐がありますし、楽しみですね。覚悟を決めてやるというより、ワクワクする気持ちのほうが大きいです。しかもストークスには良いプレーヤーが揃っている。みんな優しいので馴染みやすいですし、プレーもしやすい。抵抗はなく、ずっと前から仲が良かったみたいにやれていますよ。でも、ただ仲が良いだけではダメ。その点でも厳しいことが言い合えているし、良い仲間だなと思っています」
「仲が良いだけではダメ──」。長くトップカテゴリーで戦ってきた男の言葉は、鋭く突き刺さる。ここで敢えて、ストークスがB1昇格を果たすために、現時点で欠点になっていると感じる点を厳しく指摘する。
「優しさ。それ、じゃないですかね。ストークスは良い意味でも、悪い意味でも、良いヤツが多いんです。試合に臨むにあたっては、第1クォーターから相手を力でぶっ潰すくらいの熱い気持ちでガツンと行かないといけない。ここにはどんなプレーをした、シュートが入ったか入らなかったかより、気持ちの部分が大きくかかわります。ストークスの選手はみんな優しいんです。その長所が勝負の局面で、短所になりかねないんじゃないかと感じます。試合の出だしから、ファウル覚悟で強くプレーするくらいでいいんですよ」
彼自身は、大声をあげてチームを鼓舞する選手ではない。何事にも実直に取り組み、その背中を見せてチームメートを牽引する。だからといって、取っ付き難い一匹狼のようなタイプかと言えば、それも違う。明るく気さくな性格で、ストークスの仲間ともすぐに打ち解け、大阪時代はブースターとも常に笑顔で交流していた。だが、いざコートに一歩足を踏み入れると、熱い気持ちにスイッチが入る。
「誰かが熱いプレーをしたら、ベンチからも声が出て盛り上がります。ストークスでは、どの選手がそれを最初にするのか。全員が待っている、そんな感じがするんです。みんな頭が良いんですよ。だから、相手の出方を見てしまうようなことが多いのかな。僕のプレーのモットーは、ハッスルすること。僕が自分のプレーをすれば、チームは必ず良い方向に進むと思っています。そういう熱量の高いプレーも見せていきたいです」
豊富な経験に加え、攻守両面でチームに貢献できる能力の持ち主。彼は新しい挑戦の場となるストークスで、どんなプレーを見せてくれるというのか。
「ここ数年は守備に重点を置いて、プレーの割合は10のうち9くらいがディフェンスでした。でも今シーズンはオフェンスに積極的に参加できて、もっと自分らしくシュートが打てるんじゃないかと思っています。そういった具体的なプレー面ももちろんですが、でもそれ以上に、今野を取って良かったと思ってもらえる姿を見せたい。シーズンの最後に、『アイツがいなかったら、B1に上がれなかった』。そう言ってもらえるよう、何事にも全力で取り組みます」
昇格請負人──。今シーズンの最後に、誰もがストークスの背番号1を、そう呼んでいるはずだ。