[ウインターカップ特集]中部第一の常田健監督(前編)「選手に選択肢と責任を」
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[ウインターカップ特集]中部第一の常田健監督(前編)「選手に選択肢と責任を」

2019/12/22

常田健

昨年大会でファイナル進出を果たした中部第一。インターハイは8年連続13回出場、ウインターカップは今回で5年連続8回の出場となるが、全国制覇はまだ成し遂げていない。それでも、もともとは県大会レベルのチームは、常田健監督とともに全国で上位を狙えるまでに一歩ずつ成長してきた。Bリーグで脚光を浴びる宇都直輝や張本天傑を育てた指揮官は、ウインターカップ優勝を目指すとともに、「大学に行って鳴かず飛ばすのプレーヤーになっていいのか」と問いかけながら選手を育てている。

「私が主役になるような練習をしていたら勝てない」

──初めての取材になりますので、まずは自己紹介からお願いできますか。

中部大学第一の常田健です。高校はここが母校で、その頃は校名が名古屋第一高校で男子校でした。大学を選ぶ時点で将来は指導者にと、恩師の先生に勧められて日体大に行き、卒業して母校に戻ってきました。

プレーヤーとして大した実績はありません。日体大の1軍でのプレー経験は新人戦で少し出させてもらったぐらい。私たちがいた頃の日体大は、1軍、2軍のA班とB班、3軍の1班から4班に別れていて、私は3年生まで2軍のA班でプレーして、4年生になった時からトレーナーとしてサポートする側に回りました。

ものすごい人数だったので、卒業後に「日体大でした」と言われても分からない。同期はさすがに分かりますが、合宿所か学生寮か下宿が違って学年も異なると、直接かかわった相手しか分からなかったです。卒業後、始めは非常勤で働きながら部活を見て、正式採用されて今に至ります。今が49歳なので、大学卒業から27年になります。

──中部第一はずっと強かった伝統校というわけではありませんよね。

そうですね。私が現役だった頃も県のベスト4ぐらいには行っていましたが、全国大会に出たことはありませんでした。私が大学を卒業する時に恩師が辞められたんです。私は恩師に勧められて日体大に行って、戻ってカバン持ちから始めるつもりだったのでショックでした。

イチからではなくマイナスからの始まりです。最初は右も左も分からず、見本になる人もいない。部員も10人もいないところからのスタートでした。ギリギリ県大会に出られるかどうかという時代もありましたが、何とか県大会は外さずにやってきました。初めて全国大会に出たのが1996年の山梨インターハイ。その時はまだ私も非常勤でしたし、部員もバスケの素人ばかりでした。愛知県は昔の名電高校、愛産大工業、安城学園や名古屋大谷も強くて、8年ぐらい全国に行けなかった時期もあります。個人的にはここが一番苦しかった時期です。

常田健

「宇都と天傑の入学が、チームが変わるきっかけに」

──なるほど。愛知県は人口も多いし、バスケ王国と呼ばれる土地柄ではなくても競争が厳しかったんですね。当時、一番厳しかったのはどの部分ですか?

来ていただいて分かったと思うのですが、ウチは辺鄙な場所にあって、名古屋市内の選手にとっては都落ちのような印象を受けます。愛知県は男子バスケ部のある高校が200を超えていて、高校野球より多いんです。だから生徒の側からすれば、バスケットの特徴を考えるのはもちろん、校風や偏差値を考慮しても選択肢が多くなります。ウチはアクセスも悪いので、部活を終えると本当に帰りが遅くなります。家からすぐに通える場所にターゲットとなる学校があれば、そちらを選びますよね。

──郊外にあるのは今も同じですよね。何が変わって強くなったのでしょうか?

選手寮をやり始めたことです。学校の許可をもらって近隣のマンションと契約して、そこで生徒を共同生活させて、コーチも常駐させました。一番最初の寮はとにかく安くということで古いアパートでしたが、それでも寮があることで選手のリクルートができるようになりました。

そういう形になって最初の生徒が宇都直輝や張本天傑です。ウチの卒業生でプロでやっているのは、その2人と青森ワッツでプレーしているビリシベ実会、そして大東文化大から大阪エヴェッサに入った中村浩陸です。

──宇都選手と張本選手は同級生ですよね。彼らが入ってきたことは大きかったですか?

そうですね。宇都と天傑が入学してくれたことが、チームも私自身も大きく変わるきっかけになりました。彼らにとってみれば、当時の中部第一は彼らのレベルに合わないチームだったと思います。そういうタイミングで熱心に勧誘したのもありますが、彼らが入ってくれて全国で初めてベスト16に行くことができた。これが一つのきっかけになりました。

常田健

「優勝しなくても日の丸を背負う選手はいる」

──常田コーチの指導は時代とともにどう変わってきたんでしょうか?

指導を始めた頃は、日体大でやってきたことをそのまま取り入れていましたが、時代とともに変わっています。時代の流れに合わせて指導形態を変えられないのだとしたら、今の世の中では通用しません。宇都や天傑がいた頃の練習を今やったら、選手は多分ついてこれません。旧体質のままバスケットをするのは絶対にダメですね。

今は日本代表のアンダーカテゴリーにも携わり、NTC(ナショナルトレーニングセンター)で代表合宿を視察させていただいたりもします。指導者育成の考え方に触れる機会も多くなりました。そんな影響を受ける中で、指導者が変わらないとチームは強くならないと感じるようになりました。

今すごく大事に考えているのは、全国大会の上の方では、指導者ががんじがらめに全部を操るようなチームではなく、選手が自主性を持って主体的にバスケットに取り組むチームでないと勝てないということです。今はインターハイは8年連続13回、ウインターカップは今回で5年連続8回の出場になりますが、全国の強豪校と戦えば戦うほど、それを痛感します。

ということは、日頃から私が主役になるような練習をしていたら勝てない。だからチーム練習と個人練習の時間の割合も思い切って変えました。選手によってやりたい個人練習には違いがあるので、選手が自主的に動く時間帯を練習の中に組み込んでいます。選手がやらされるのではなく、主体的にやれる環境を用意してあげることを考えています。

──今も取り組んでいるところかと思いますが、目に見えて成果が出るものですか?

その中で努力している選手をすくい上げて、成功体験を与えてあげれば、ここを卒業した後にドロップアウトすることが少なくなります。昔はダメ出しばかりの指導で抑え込むのが一般的でした。するとその指導者の手から離れた時に弾けてしまって、ドロップアウトしてしまう。

中部第一の3年間で勝つことも大事ですが、大学に行って鳴かず飛ばすのプレーヤーになっていいのか。優勝しなくても日の丸を背負うグッドプレーヤーはいるわけですよ。その子の問題もあるかもしれませんが、自分の3年間の指導体系が影響していると考えたら、私自身もあらためなければいけない。時間はかかりますが、選手に選択させて、負けも覚悟で見守る。そこでは負けたり失敗するかもしれませんが、その経験が次のカテゴリーでの大きな成果に繋がるのであれば、選手にとっては大きな成長です。

昔は負けないために、失敗させないために1から10まで管理していたし、それが選手のためだと思っていました。でも選手に選択肢や責任を与えた方が次に繋がります。そのさじ加減に悩む部分はありますが、結局はそこが一番大事なんだと思います。

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