馬場雄大が語るバスケ部時代vol.2「馬場雄大の基礎が出来上がった、濃い3年間」

2018/12/25
Bリーグ&国内
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馬場雄大

文=松原貴実 写真=野口岳彦、鈴木栄一

「今、僕はあの時に教えられたタイミングで走っている」

富山市立奥田中学校での3年間を言葉で表すとすれば「キツかった」の一言です。1年のうち練習が休みなのは元旦だけで、残り364日は厳しい練習の日々でした。コーチの坂本穣治先生は本当におっかなくて、髪を伸ばしているとつかんで引っ張られるんじゃないかという恐怖から、誰に言われるでもなく全員が坊主にしていたぐらいです。当時の僕は坊主頭に『挑戦』と書いたハチマキをした少年でした(笑)。

練習時間も長かったです。授業が終わるとすぐに体育館に直行。坂本先生が昼間に来られない火曜と木曜は18時から21時までの夜間練習になるので、いったん家に帰ってからまた体育館に戻らなきゃならない。「ああ、また学校に行くのかあ」と、それは結構ユーウツでしたね。

その頃のプレースタイルは今の自分のレベルをそのままぐっと落としたような感じだったと思います。1年から試合に少しずつ出させてもらって、2年でスタメンになりました。坂本先生のバスケットは結構システマチックで、「こういう時はこういう動き」というのをしっかり覚えなくちゃならない。間違えると怒られるので必死に覚えるんですが、一瞬一瞬の判断がまだできなくて、そこはもうしつこいぐらい注意されました。

それと練習には外部コーチとして原田茂先生(前樟蔭東高校、短期大学監督)が来てくださってたんですが、この原田先生の指導がまた本当に細かくて厳しい。できないと怒られて、また怒られて、怒られて、どんどんメンタルが削られていくんです。あれはつらかったなあ。だけど気がつけば、それが今、全部自分の財産になっているんですね。ちょっとしたプレーのタイミングについても「そうじゃない。違うだろ」と、何度も言われて、そのたびにできない自分が情けなくて泣きたくなるんだけど、繰り返して覚えた感覚は忘れない。いつの間にか自分の身体に染み込んでいるんです。

今、僕はあの時に教えられたタイミングで走っているし、考えなくてもそのタイミングで身体が勝手に動きます。自分の土台ができたのは間違いなくあの3年間だと言い切れるし、その土台を築いてくださったのが坂本先生と原田先生だということも間違いありません。陰でいっぱい愚痴ってた中学生の僕を許してください(笑)。

成績だけを見れば、1年の時は県3位、2年の時は全国大会に出る気満々だったのに北信越大会の1回戦であえなく敗退、3年の北信越大会でも新潟の本丸中に大敗……と、全国の舞台は一度も踏めなかったですが、記録に以上に貴重なものを得て、馬場雄大の基礎が出来上がった、めちゃくちゃ濃い3年間だったと思います。

馬場雄大

「あらためて父とKポップに感謝しなくちゃ(笑)」

自分にとってもう一つ大きかったのはU16の代表に選んでいただいたことです。おかげで今までにない高いレベルでプレーする経験ができました。でも、最初の合宿に参加したときはかなり萎縮してたんですよ。周りの選手はもう『仲間』という雰囲気なのに、富山の田舎から初めて参加した僕はその中に入っていくことができず、1人だけポツンとしてました。多分気後れしてたんだと思います。

練習でも緊張して、全く自分らしさを出すことができませんでした。で、富山に帰って家でその話をしたら、父が「そうか。だったらもし次の合宿に呼ばれるようなことがあったら何も考えず思いっきりやってみろ」と言ったんです。「ミスしたっていい。無我夢中でプレーしてみろ」って。次の合宿ではその父の言葉を思い出して頑張りました。そうしたら少しずつ自分の良いところが出せるようになって、1月のドイツ遠征では途中からスタメンで使ってもらえるようになったんです。

当時の僕の趣味は唯一『Kポップを聴くこと』だったんですが、それがきっかけで杉浦(佑成)ともよく話すようになって、だんだんチームに溶け込んでいきました。アジア選手権に出られたことは自信に繋がったし、思えばあれが自分の最初の転機だったように思います。そう考えると、あらためて父とKポップに感謝しなくちゃいけません(笑)。

馬場雄大

「じいちゃんになっても忘れない」初めてのダンク

最初にも言いましたが、父は元バスケット選手で日本代表にもなったことがあるんですが、普段は穏やかな性格で、怒られた記憶もあまりありません。けど、僕のことは本当によく見ていてくれていて、肝心なことはビシッというような人でした。

こういうこと言っていいのか分かんないですけど、と、言いつつ言っちゃいますけど、当時試合に行くと必ず固まって僕を応援してくれる女の子たちがいたんですね。他の中学に僕のファンクラブがあるらしいという噂も聞こえてきました。坊主頭に『挑戦』のハチマキをしていても頑張っていれば女の子のファンはできるんですね(笑)。女の子にキャーキャー言われればやっぱりうれしいし、ちょっと良い気にもなるじゃないですか。

その浮かれた気分がプレーにも出る、それが僕です。そしてそれを見逃さない、それが父です。「おまえ、なに勘違いしてるんだ」と、いきなりバッサリ斬られました。「そんなことで浮かれてプレーしているようじゃ将来はないぞ」と一喝されて、浮かれ気分は完全消滅です(笑)。

中学の部活を卒業した後、僕にダンクの練習を勧めてくれたのも父でした。父はウエイトトレーニングをしてダンクができるようになったらしいのですが、その経験からダンクの練習をするなら早い方がいいと思っていて、週2回か3回か、父がコーチする富山第一高校の体育館に通うようになりました。シュート練習から始まり、最後にダンクの練習で締めるんです。感覚をつかむために最初はバレーボールを使って、形になってきたところでバスケットボールに変えて、「10本できるまでやるぞ」と、父がふざけて言っていたことがだんだんクリアできるようになりました。

公式戦で初めてダンクした時の興奮は今でも忘れられません。高校1年の県大会でした。速攻から両手でダンクを狙い、ジャンプした感覚もボールを叩きこんだ感触も、その瞬間ドォーッと湧き起こった会場のざわめきも大きな歓声も、まるで時間が止まったみたいに思い出すことができます。それからはチャンスがあるたびにダンクをするようになって、今では自分の代名詞みたいになっていますが、やっぱり一番心に残っているのは高校1年で初めて決めたあのダンク。きっとじいちゃんになっても忘れることはないと思います。