川淵三郎の大勝負、Bリーグ誕生への転機となったbj代表者会議~『B.LEAGUE誕生』第10章より抜粋

川淵三郎の大勝負、Bリーグ誕生への転機となったbj代表者会議~『B.LEAGUE誕生』第10章より抜粋

2021/02/21 12:00
B.LEAGUE誕生

バスケットボールファンならば川淵三郎の名は知っているだろう。Jリーグ、Bリーグのいわば創始者で、先日は東京オリンピックパラリンピック組織委員会の会長としても名前が挙がっていた。

そんな彼の火事場における辣腕を詳述した章が、『B.LEAGUE誕生 日本スポーツビジネス秘史』(大島和人著)にある。彼はbjリーグ、NBLに分立していた男子バスケのトップリーグを束ねるため、境田正樹弁護士のプランを元に、ある会議で一世一代の「勝負」に出た。今回はBリーグ誕生への大きな流れを作ったエピソードを話題の新刊から抜き出して紹介したい。

A4用紙2枚の提案書

NBL、bjリーグに分かれていた2大リーグがどう「合併」するのか。それがバスケ界で長くフレームアップされていた論点だった。NBLは社団法人、bjリーグが株式会社という違いはある。とはいえ企業の合併・統合と同じように条件を詰めていくのだろうと、ファンやメディアは想定していた。

2015年1月28日の第1回タスクフォースで、共同議長の川淵三郎は「Bリーグの形」を緩やかに提示していた。しかしNBL、NBDL(2部リーグ)と、bjリーグの47クラブをどう器に収めるか、見通しが立っていたわけではない。

ハードルの1つはNBLに5つあった企業チームの法人化、プロ化だ。より難しかったもう1つのポイントが両リーグの「合流」だ。bjはNBLに比べて経営的に小規模なチームが多く、それでも成り立つ制度設計がされていた。さらにリーグ組織をどのような条件で新リーグが引き受けるかという争点もあった。

タスクフォースの実質的なナンバー2だった境田正樹弁護士が妙手を発案し、事態を一気に動かした。彼は経緯をこう振り返る。
「2月4日が肝で、この日にbjリーグの代表者会議がありました。僕は『3期分の資料を私のところに出して、ヒアリングを受けてください』というタスクフォースからのお願い文書を持って、浜松町の会議室に行ったんです。お願いをしたらすぐ帰ればいいんだけど、残っていたら4時間くらいかかった」

紛糾した会議は、結果的に境田が経営者たちとの距離を縮める好機になった。会議が長くなれば休憩も入る。その幕間を彼は活かした。「あるクラブの外国籍選手が大麻で逮捕されたり、色々と揉めていて、僕もずっと座って聞いていた。途中の休憩で全クラブの社長と名刺交換ができて、話もできたんですね」

クラブの経営者は川淵のイニシアチブをどう見ているのか? 境田は軽い会話を話しながら、感触を探った。

「『川淵丸』に行きたいという人が3分の1くらいいたんです。様子見が5割6割、反対が1割2割いました。強くて人気のある、核となるチームが割と前向きだった」

半数以上のクラブは様子見で、事態が悪い方向に転がる可能性もあった。性急なプロセスで反発を招くリスクを避け、丁寧に説得する発想もある。一方で境田には早期決着を図る理由があった。

「早く勝負をつけたほうがいいなと思ったんです。なぜかというと、もう1つの仕事があった。4月までに理事のクビを切らなければいけないわけです。クビなんて簡単に切れるもんじゃないけれど、リーグの統一ができたら『あとはあなたたちだけだよ』と説得できる。3月15日に評議員会とか勉強会があるので、早めにアピールしたかった」

理事や評議員はボランティアだが、それぞれの思いや立場がある。彼らをともかく切る以上、体制刷新はきれいごとで済まない。しかし日本協会に関しては「当時の理事を全員揃って退任させて、新体制に切り替える」ことがFIBAの〝宿題〟だった。クラブについてはNBL、NBDL、bjリーグの全クラブによる新リーグへの参加同意が同じように前提だった。そのプロセスはいわば汚れ仕事で、境田が負うミッションだった。

8日後には改めてbjリーグの代表者会議が予定されていた。4時間の会議を終えて事務所に戻った境田はすぐ動く。「そのまま川淵さんに電話をしました。実は2月12日にも臨時代表者会議があって、ここで勝負をかけませんか? と言いました。川淵さんは『俺その日空いているから行くよ』というわけです」

境田は新リーグの形を考え始めた。1つはNBLとbjリーグを合併させるオーソドックスな案。もう1つはクラブが両リーグを脱退し、「第3のリーグ」に合流する方法だった。境田は説明する。

「理念とルールが違い、相手に対する不信感もある。加えて(bjリーグは)債務問題があった。これを買い取るのは難しいし、調整に充てる時間がなかった。そうしたら脱退だよねとなります。NBLとbjリーグのルールを調べたら、前年の6月までに退会届を提出すれば、その次のシーズンには辞められるとあった」

境田の選択は第3のリーグ方式だった。彼は6日に組まれていた川淵を囲む関係者のブレインストーミングまでに、新トップリーグの枠組みと発足に向けたスケジュールを、A4用紙2枚の資料にまとめた。3月4日のタスクフォースで、新法人設立を提案。それからリーグの概要を各チームに説明し、4月1日に新法人を設立する流れを提案する内容だ。各クラブが一斉に旧リーグを退会し、新リーグへの申込みを行う前提となる。

bjリーグ、NBLを脱退したものだけが申し込める

これは危険な構想でもあった。全クラブを退会させるのだから、NBLとbjリーグは休眠状態、もしくは清算に追い込まれる。社団法人だったNBLはともかく、bjリーグには株主がいた。

川淵や境田らが参加した6日の議論では、時間をかけて慎重に2リーグの合併を進める別の案も出た。境田案に対してはbjリーグ側の禍根を懸念する反対論も出たという。しかし川淵は境田の案に乗った。

川淵は説明する。「bjリーグは15億円の資本金を集めつつ債務超過寸前になっていた。資本を200人くらいに出してもらっていて、それを回収できないとなると責任問題になる。その回収がすべてで、今まで話が進まなかった。それは話している最中によく分かった。15億のことでなぜ日本のバスケットボールがウロウロするのか? 200億、300億の市場に向けて、15億円でうろうろしているようじゃ仕方ない。bjリーグ、NBLを脱退したものだけに申し込める権利があるという方法を考えたのは境田先生。そういう段取りは彼がいるから上手くいった」

12日に浜松町の貸し会議室で予定されていたbjリーグの代表者会議に合わせて、タスクフォースの事務局は急遽NBLの会議と、その後の記者会見をセッティングした。10日にはメディアに向けた取材案内も出された。bjリーグ、NBLの代表者会議に川淵と境田が出席し、終了後に会見を開くという内容だ。

川淵の奇襲攻撃

12日当日に、川淵が境田の想定以上に踏み込んだ行動を起こす。境田は振り返る。「川淵さんから朝の6時くらいに電話がかかってきて、『色々考えたんだけど』と言うんです。今日『5000人のアリーナがないとダメ、8割使えないとダメ、退会届も出してもらう』と話をするというんですよ。5000人のアリーナはいいですよ。でも退会届を出して、4月1日に新法人を作るから加盟してくれということは、bjリーグの運営会社にしたら10年間で築き上げものが無くなりますという意味。つまり消滅なんです。だけど川淵さんは『これを俺は今日言いたい』と仰るわけですよ」

bjリーグを尊重し、「どう一緒にやれるか」という対話を進めてきた彼らにとっては、劇的な大転換だった。

境田も川淵の賭けに同意する。「何をいきなり……ってなるんだけど、逆に考えると暇を与えず、いきなり社長に向かって『俺のところに来い!』とプロポーズをするわけです。初めて会った日に『離婚して俺のところに飛び込んで来い!』というのだから、これは天才だなと俺は思った。『それを言うと混乱しますけどね』って受けて、しばらく考えた。沈黙が1、2分あったと思います。でも『それで正しいと思います』って伝えたら『うん、分かった』と川淵さんは言いました」

かくしてbjリーグの代表者会議に乗り込んだ川淵は、畳み掛けるように新リーグの構想を語リ始めた。完全な奇襲攻撃だった。

川淵はbjリーグの幹部と経営者に対して、こう切り出す。「4月の初めには新法人を設立したい。ということは各クラブにはリーグへ脱退届を出していただきたい」

川淵はこう説明する。「トップが変わるときは最初が大事なんだよね。初めに下から出て、緩やかな感じで途中から強く出ようと思ったときにはもう遅すぎる。新しく変わるときは、はじめに高飛車に出てガンとやらないと組織って上手くいかない。『皆さんの意見を聞きながらいい方向を探していきます』『どうぞ意見を出してください』なんていうようなことで成功するわけはない」

もちろん単なるハッタリではない。川淵はこの時点で既に理論武装ができていた。反論が来ても、それに応える用意があった。彼は振り返る。

「すべての資料を読み込んで、問題点を3つに絞った。それは5000人のホームアリーナと開催8割、サラリーキャップ廃止、法人化だね。それに対する対案を、Jリーグの経験からバスケットボールに当てはめた。1人である程度の方向性を出して、『私案だけどもこう考えているよ』ということを第1回タスクフォースのときに言ったんだよね。でも(経営者は)みんな『8割もホームアリーナで試合をするなんて馬鹿をぬかすな』と思っていた」

「ぜひ、やりましょう」

NBDL(NBLの下部リーグ)所属チームは別だが、NBLとbjリーグのクラブは「下部リーグに落ちる」ことへの抵抗感、恐怖感が強かった。1部入りを目指す多くのクラブにとって「5000人収容のアリーナで8割の試合をやる」というトップリーグ参入の条件は、ほぼ不可能なハードルと受け止められていた。反発は「8割問題」に集中していた。

12日の会議でも、当初は懐疑的な意見が出た。冒頭ではクラブ経営者が、北側から順に意見を述べる進行だった。青森ワッツの下山保則社長を皮切りに、川淵案への反発が相次いだという。

川淵はそんな反発も折り込み済みだった。「全部読み筋で『そう言うだろうな』と思っていた。それはみんな体育館の使用を許可する人のところにしか行っていないから。そうしたらバスケットボールだけでなくバレーやハンドボールや、地域の色んな競技にその体育館を開放しなきゃいけない。1つのプロに年間9試合も10試合も貸すわけにいかないから、せいぜい2、3試合ですよと答えるよね」

バスケ界はクラブと自治体との関係が浅かった。施設の担当者でなく、首長にアプローチすれば答えは変わってくる。川淵はJリーグのトップを経験し、それを理解していた。「『あなたはどこに行っているんだ? 市長のところ行っているのか? 知事のところ行っているのか?』と聞いたら誰も行ってない。『そこがOKと言えば8割貸してくれる。それをやってから文句を言え』ということだね。俺はJリーグのときに全部の市長や知事に会っている。そのときに説得した経験があって、どうしたら首長さんが首を縦に振るのかを、自分の中で培ってきた。これほど強いものはないよね」

会議の空気を変えたのが滋賀レイクスターズの坂井信介社長(当時)だ。「微妙な雰囲気だった中で『ぜひ、やりましょう』といったのは僕です。『これをみんなでやるべきじゃないか』と言ったのを覚えていますね」

境田は振り返る。「坂井さんは『今のbjリーグの運営には限界がある。これでは僕らの将来が厳しい』とまず言った。そして僕は川淵さんの提案に乗りたいと意思表示をした。あと覚えているのは『1部にちゃんと上がる仕組みができるなら2部でもいい』という発言です。本当は1部しか頭になかったと思うんですが(笑)」

リーグ首脳が出席していた会見で、未来を疑問視する発言を行うのだから、かなりの勇気は必要だ。新リーグが仮に失敗していたら、坂井の抜け駆けによりクラブの立場は悪くなったかもしれない。一方で流れが新リーグへと傾き、「退会案」に同調するクラブが続出するならば、bjリーグへの気遣いは不要になる。

結果的に坂井の発言は、経営者たちの躊躇を断ち切るナイフになった。続く10クラブからは「新しいリーグで頑張っていきたい」という前向きな発言が相次いだという。

唯一の計算違い

川淵は席上で、身内にも「爆弾」を落とした。両リーグの代表者会議は非公開の予定で、冒頭のみ傍聴と撮影が許されていた。にもかかわらずメディアの退席を促そうとしたタスクフォースの広報担当者を彼は一喝した。

メディアがその場にいたのは、いわゆる「頭撮り」が目的で、そのように告知もされていた。ただし川淵はサプライズで、メディアを部屋の中に残した。すべてを晒す覚悟を決め、激論が可視化されればむしろバスケ界の宣伝になるという効果まで計算していた。

過去にいくつもの会見を経験し、修羅場に慣れている川淵ならば、カメラの砲列にも怖気づくことはない。だがbjリーグの幹部、クラブ経営者は気勢を削がれたに違いない。

境田は言う。「横で見ていて『これ、どうなるんだろう?』と思って、もうハラハラですよね。みんなどう反応していいんだろう? って、ほとんど下を向いていた。恐ろしかったですよ」

しかしbjリーグの代表者会議は川淵のペースで進んだ。境田は振り返る。「大した質問はなかったですね。『5000人のアリーナはなかなか難しいんですけど』とか『階層性になったら、2部から1部に上がれるんですか』とか。質問をすればするほどそれが前提になっていく部分があるんです。だから川淵さんは天才だなと思った」

様子見だったbjリーグの各クラブも、新リーグ構想と退会を受け入れていくことになる。この日をもって、bjリーグの消滅が実質的に決まった。

川淵は少し朱の差した精悍な表情で夕方の記者会見に登場し、余裕綽々で質疑応答をこなすと、最後にこう締めた。「バスケットボールを報道してもらうことが一番のお願いです。今日なんか厳しいことを言ったら(激しいやり取りになって)記事になると思ったけれど、そんな質問が無くてがっかりした」

ただ川淵にとって計算違いの部分が1つだけあった。彼は3年後の取材時にこう明かしている。「マスコミの皆さんは俺の悪口を書くのが好きだから、絶対に載るなと思った。俺は覚悟して言ったし『川淵激怒』どころでない過激な見出しになると思ったら、ならなかった」

彼は1993年のJリーグ発足直後に、読売新聞社の渡辺恒雄社長(当時)と激しい論争を行い、それが話題を呼んだ。結果的にはJリーグの理念を社会に浸透させる好機となった。しかし「好敵手」となり得る論客は、当時のバスケ界にいなかった。

とはいえ日本バスケが変わりそうだ。長らく解決しなかったリーグの分裂問題が解決しそうだ。そんな前向きな空気は社会に伝わり始めていた。

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