今川友哲

明治大から秋田ノーザンハピネッツに加わった今川友哲のルーキーイヤーは、様々な困難を伴うものになった。インカレで前十字靭帯断裂の大ケガを負い、リハビリからのスタート。プロの壁にも直面し、実力を出せないままB2のライジングゼファーフクオカへレンタル移籍することに。ここでようやく自分らしさを発揮し始めたところでシーズンが打ち切られた。契約がなくなり、不安だったところに滋賀レイクスターズからのオファーが届いた。彼自身は「ラッキー」と語るが、若手の目利きにこだわる滋賀が彼に可能性を見いだしたのも事実。195cmの身長とフットワークの良さを兼ね備え、クレイ・トンプソンにあこがれて11番を選択する今川は、プロでの生き残りを懸けてハードワークを誓う。

「練習で一番ハードワークしていた」と先発に抜擢

──取材させていただくのは初めてとなります。まずは自己紹介からお願いします。

今川友哲です。大阪桐蔭、明治大の出身で、大学2年の時にアジアのパンパシフィック選手権に出させてもらいました。4年生のインカレで前十字靭帯を断裂してしまったのですが、秋田で契約をもらってデビューして、2月から福岡にレンタル移籍しました。来シーズンは滋賀でプレーします。

──前十字靭帯の大ケガからプロキャリアがスタートするとは大変でしたね。

正直、やった瞬間に「どうなんねやろ」と思いました。もうプロはあきらめなきゃいけないのかなって。ですが、秋田から契約を続けると言っていただいたので、チャンスがあるなら挑戦しようと思いました。プロは練習から一つひとつのプレーの質が高くて、大学までやっていたバスケでは全然足りないと感じました。ケガから復帰した1年目だったのでスタートも遅れてしまい、ずっと追いかける感じでした。プレータイムももらえなかったんですけど、それはケガの影響ではなく、単純に実力の問題です。特に問題だったのはチームバスケットの理解度だったので、ケガのせいにはできません。練習で周りと比べてしまうと、やっぱり自分の理解度が低いのは感じました。ただ、考えなくても頑張ればやれる部分は通用する手応えもありました。

──それでも、シーズン途中でレンタル移籍に出されることになりました。プロ入り半年でB2のチームへ出されるのは結構キツい経験だと思います。前向きに切り替えることはできましたか?

最初は「マジか……」という思いが大きかったですね。ケガ明けで秋田に助けてもらって、自分にできる形で貢献しなければいけないと強く思っていたので、チーム側からレンタルを告げられた時は正直ショックでした。ただ、福岡に行ってからは前向きになったというか、「ここでやるしかない」と気持ちを切り替えました。ペップコーチ(ジョゼップ・クラロス・カナルス)は新しく入って来たとか関係なく、全選手を使うと知っていたので、試合に出たらやるしかない、結果を出すつもりでした。

また、福岡ではチームメートの皆さんに助けてもらいました。ベテランが多いチームなので、すごく緊張して行ったんですけど、実際はすごくアットホームで、特に(堤)啓士朗さんとか(加納)誠也さんには優しくしていただきました。いや、イジリが7で優しさが2ぐらいですね(笑)。そのおかげで、途中加入というのが嘘みたいに馴染むことができました。

──秋田ではほとんどプレータイムを得られませんでしたが、福岡では約10分のプレータイムを得て先発出場の機会もありました。ただ、福岡で8試合に出たところでシーズンは終わってしまいました。

ペップは先発で使ってくれる時に「練習で一番ハードワークしていたから使う」と言ってくれて、それはすごく自信になりました。ペップが自分のディフェンスを見ていてくれた、それは一つ評価された実感になりました。

今川友哲

「チームのためにディフェンスもオフェンスも」

──滋賀への移籍が決まるまで、どんな心境でしたか?

シーズン終了が決まった時は、プレータイムも伸びて調子も上がっていたところだったので、あと10試合ぐらいやれていれば違ったはずなのに、との思いがありました。何の実績も結果も残せなかったルーキーで終わってしまうのは嫌でしたね。

まず秋田や福岡から契約をもらえず、自分のいたチームで認められないのは評価が低かったということなので、それはショックでした。ちょうど一番フワフワしていた時期が完全自粛だったので、練習することもできずに家に引きこもっていました。ヒマすぎるので本を買って、プログラムの勉強としてゲームを作っていました。本に沿ってですけど、パソコンの前でカチカチやって、パズルゲームみたいなものは一つ完成させて、今はRPGを作ってます。トレーニングはできる範囲でやっていたんですけど、それでも午前中で終わってしまうので、ゲームしててもヒマだなあ、じゃあ作ってみよう、と。それぐらいヒマだったんです(笑)。

──自粛期間にゲームを作っていたプロバスケ選手は今川選手だけだと思います(笑)。将来的に会社を作りたいとか?

バスケの後にやれることが何かあった方がいいな、とは思っています。僕は何も資格とか持っていないんです。教員免許もないので、技術があればいいかなと思って。でも、新型コロナウイルスで自粛している時期は、自分の契約がどうなるかだけじゃなくコロナ自体が収まるのかも分からず、人としゃべることもあまりなかったので、何をして過ごすのが正解なんだろう、という不安がありました。

──そこに滋賀からオファーが来たというわけですね。

そうですね。滋賀も選手が一気に入れ替わるタイミングで、僕にオファーが来る、しかもB1でプレーできるのは大きなチャンスだと思いました。僕としてはラッキーなことだし、ほぼ即決でした。でも、契約が決まった今はラッキーとは思ってなくて、滋賀は若いチームですが、その中でプレータイムを勝ち取っていかないことには生き残っていけません。しかも戦うのはB1なので、開幕までに準備しておかないといけないことはたくさんあります。

──195cmありますが走れるタイプです。最近はポジションアップする選手が多いですが、目指すプレーヤー像はありますか?

やりたいのは3番ポジションですね。ここからレギュレーションも変わって外国籍選手がベンチに3人は入れるので、4番の選手では需要が減ってきます。本当は一番好きな選手がクレイ・トンプソンで、背番号11もそれで付けているんです。2番ポジションができるぐらい3ポイントシュートが入ったら良いですけど、そうでなくてもチームのためにディフェンスもオフェンスもやって、それで結果を残しているのはすごいですよね。僕もそんなプレーヤーを目指したいです。

今川友哲

「謙虚にやって1年だけで終わってしまうのは嫌」

──いろいろ慌ただしかったプロ1年目を終えて、どんな収穫が得られましたか?

人それぞれやることは自由だし、何をやっても正解なんですけど、「やりたいことじゃなく、やらなければいけないことをやっているか」が問われると思いました。プロとして長く続けている人は、それができているんだと分かりました。

個人的には、ケガをしたことが分岐点になったかもしれないです。それまでは「なるようになるさ」の人生で、大学に行く時も「関東に行ってみたいな」ぐらいの軽い気持ちで決めたし、大学で4年間やっているうちに成り行きでプロを目指すみたいな感じでした。そこで大きなケガをして、復帰するのに秋田のトレーナーさんにはすごくお世話になりました。ここからは、自分がやりたいからやるだけじゃなく、恩返しの時間なのかなと思っています。

──ケガをしたひざは、もう不安はありませんか?

ペップコーチのバスケが練習からすごく激しいので、「こんなにやってて大丈夫かな」と思うこともありましたが、もう不安はないですね。今はもう滋賀で結果を残したいという気持ちが強いです。また新加入になりますが、謙虚にやって1年だけで終わってしまうのは嫌なので、自分の持てる力を全部出して、チームの主力になれるよう頑張っていきます。

──秋田と福岡で応援してくれた皆さん、また新たにお世話になる滋賀のブースターへのメッセージをお願いします。

まず秋田ですが、試合に出ていなかった僕にも優しく接してくれました。そして出たら盛り上がって、得点を決めたらまた盛り上がってくれて、すごくモチベーションを高めてくれたのでありがたかったです。福岡の皆さんにはシーズン途中で来た僕を温かく受け入れてくれて感謝しています。皆さんに支えていただきました。本当にありがとうございました。

そして滋賀では、バスケットで活躍するために頑張るのは大前提となります。一番見てほしいのはフットワークを生かしたディフェンスで、シーズンを通して一度も抜かれないつもりです。一度でも抜かれたら指摘してください。それぐらい止めてやろうと思っています。今シーズン経験した中ではアルバルク東京の田中大貴さんが一番すごくて、田中選手は何とも思っていないと思うんですけど僕は絶対に止めるつもりでやっていきます。

また、せっかく関西に5年ぶりに戻るので、久しぶりに関西の血を蘇らせるよう、面白いフリを持ってきてもらえたら応えられるよう頑張ります(笑)。ボケは苦手で、自分から何か行こうとしても全然面白くないのでツッコミでお願いします!