文=鈴木健一郎 写真=野口岳彦

『バスケット・グラフィティ』は、今バスケットボールを頑張っている若い選手たちに向けて、トップレベルの選手たちが部活生時代の思い出を語るインタビュー連載。華やかな舞台で活躍するプロ選手にも、かつては知られざる努力を積み重ねる部活生時代があった。当時の努力やバスケに打ち込んだ気持ち、上達のコツを知ることは、きっと今のバスケットボール・プレーヤーにもプラスになるはずだ。

PROFILE 松井啓十郎(まつい・けいじゅうろう)
1985年10月16日生まれ、東京都出身のシューティングガード。クイックリリースで放つアメリカ仕込みの3ポイントシュートでチームを勢い付けるシューター。2015-16シーズンのNBLでの3ポイントシュート成功率は2位以下に圧倒的大差を付ける44.8%だった。

普段から大人に交じって、外国人とやるのも普通でした

僕がバスケを始めたのは小学校1年生の時、きっかけはマイケル・ジョーダンです。1992年のバルセロナ五輪で、NBAのスター選手を集めて『ドリームチーム』と呼ばれたアメリカ代表が注目を浴びたんですが、そこでのジョーダンのプレーを見て感激した父が「バスケをやれ」と言いだしたのがきっかけなんです。

それまではサッカー少年だったのですが、それでバスケをやるようになりました。父に言われて始めたバスケではありますが、強制されたわけではありません。「どんな感じなんだろう」と始めてみたら、すぐに「面白いぞ!」という感じになりましたね。

でも、バスケは始めたんですが、ミニバスはやっていないんです。「ああいうのは変な癖が付く」と父に言われて。だから小学校ではバスケ部じゃなく卓球部でした。一応、当時住んでいた市の大会で優勝したことがあるので、下手ではなかったと思います。

運動神経抜群と言うほどではなかったですが、スポーツは何でも好きだったし、割と得意でした。小さな頃は兄とバドミントンをやったり、ローラーブレードをやったり。家族がバレーボール好きで、姉のバレーの試合を見に行ったりとか。サッカーもお昼休みに遊びでやるぐらいですが続けていました。

小学校の頃はチームに入っていなかったので、バスケは学校が終わってから。ミニリングがダメだという話なので、正規サイズのリングがある近所の公園に行っては、父と1対1の特訓をしていました。

そして10歳の時、マイケル・ジョーダンと1対1をする機会に恵まれました。日本にバスケットを広めるために、ジョーダンやチャールズ・バークレーなどNBAの選手がナイキに招待されたイベントがあったんです。力士とNBA選手が3対3をやるとかの企画の一つとして、日本の子供とジョーダンが1対1で対決する企画があって、それに選ばれたんです。

ナイキとしても、イベントを盛り上げるために上手い子供を探したらしいんです。そのミーティングで僕の名前が挙がったようで、電話が掛かってきました。それでオーディションみたいな、どんなプレーをするのかを見られて、「この子だったら大丈夫」と。うれしかったですね。

バスケのチームに入っていたわけではありませんが、普段から大人に交じってプレーしていました。父の知り合いに、昔トヨタのヘッドコーチをやっていた元選手のジョン・パトリックがいて、小学校の頃から彼がやっているところに連れて行ってもらっていました。だから外国人とバスケをするのも割と普通だったんです。その頃から夏になるとアメリカのキャンプに行ったりもしていました。

だから同年代の子供とたまに遊びでバスケをやると圧勝でしたね。中学校2年でインターナショナルスクールに入った時にはバスケ部に所属したんですが、44点ぐらいは普通に入れていました。ポジションはずっとシューティングガード。やっぱりジョーダンをずっと見ているので、同じポジションでした。シュートも打てるしドライブもできるポジションなので。当時からシュートは大好きだったので、ひたすら練習していました。

ジョーダンにあこがれてバスケを始めた松井は、MJと同じシューティングガードとしてプレーしてきた。

バスケット・グラフィティ/松井啓十郎
vol.1「小学生でマイケル・ジョーダンと対決!」
vol.2「アメリカで揉まれて身に着けたスタイル」
vol.3「シュートは毎日400本から500本は打った」
vol.4「ハードワークもただこなすだけではダメ」