大神雄子が語るバスケ部時代vol.1「小中学校のバスケは楽しかった記憶しかない」

2017/12/24
Bリーグ&国内
2052

取材=古後登志夫 構成=鈴木健一郎 写真=野口岳彦

『バスケット・グラフィティ』は、今バスケットボールを頑張っている若い選手たちに向けて、トップレベルの選手たちが部活生時代の思い出を語るインタビュー連載。華やかな舞台で活躍するプロ選手にも、かつては知られざる努力を積み重ねる部活生時代があった。当時の努力やバスケに打ち込んだ気持ち、上達のコツを知ることは、きっと今のバスケットボール・プレーヤーにもプラスになるはずだ。

PROFILE 大神雄子(おおが・ゆうこ)
1982年10月17日生まれ、山形県出身。名古屋短期大学付属(現在の桜花学園)ではウインターカップ3連覇を含む7冠を達成。WNBAや中国でもプレーしたパイオニアで、現在はトヨタ自動車アンテロープスでプレー。今シーズン限りでの現役引退を表明している。

ロサンゼルスで始めたバスケットボール

今回は私、大神雄子のことをお話したいと思います。まずは名前のことから始めましょうか。父が監督をしている山形大学が東北インカレ予選で優勝した10月17日に私が生まれたので『優』の字を考えていたのですが、「大神という苗字にあまり合わないんじゃないか」と、祖父がお経から取ってきたのが『雄』の字でした。なかなか女の子に使う漢字ではないし、かといって子供の『子』も男の子に使う漢字でもないし、男か女か分からない(笑)。一度、「ユウシさん」と呼ばれたことがあります。孔子みたいな呼び方だと思ったんでしょうね(笑)。

生まれ育ったのは山形県山形市。父はバスケットの指導者であり大学の先生で、バスケット第一でした。母も学校の先生だったので、自由な感じで育ちました。両親だけでなく、祖父母や学生さんとか、いろんな人に可愛がってもらいました。小さい頃から身体を動かすのが好きな子供でしたね。父親の試合で、雪国ならではのナイターに連れていってもらったのを覚えています。

バスケットを始めたのは8歳の時、父親がコーチ留学したロサンゼルスでのことです。NCAAやNBAはもちろん、バスケットのコミュニティがたくさんある街です。3つ上の姉が日本人学校のチームでプレーしていて、そこに入れてもらいました。バスケット三昧の日々の中で始めたバスケットでした。

地元チームのレイカーズには刺激をもらいました。マジック・ジョンソンの全盛期で、その人気がすごすぎたからか、あまり派手じゃない選手も印象に残っています。バイロン・スコットも目立つような選手じゃなかったし、ブラデ・ディバッツにしても仕事人だし、ロン・ハーパーもシューターだし。

ミニバス時代のコーチとは今も仲良し

日本に戻って来るとミニバスのチームに入りました。とにかくバスケットを好きにさせてくれてるチームでした。コーチが中華料理屋さんをやっていて、「優勝したらラーメンをご馳走してあげるよ」とか「この試合に勝ったら唐揚げ定食を食べて帰ろう」とか、子供はそういうので頑張るじゃないですか。コーチの単純な作戦に引っかかったというか(笑)。試合に勝って、コーチの家でラーメンを食べるという感じでみんなで頑張るのが楽しくて、バスケットじゃないところでも面白さを教えてもらいました。

練習は厳しかったです。練習は週5で、シャトルラン、ディフェンスフットワーク、1対1……。すごく基本のことを毎日反復練習していました。

練習は相当厳しかったはずですが、小学校や中学校のバスケは楽しかった記憶しかないです。厳しくても好きなようにやらせてもらっていたんだと思います。バスケの厳しさやファンダメンタルを教わったのは高校に入ってからですね。ミニバスのコーチとはずっと仲良くさせてもらっていて、今でも山形に帰ると必ずその中華料理屋さんに食べに行きます。

小6で全国ミニバスに出ています。でも、小5の時に本命だったにもかかわらず試合に負けて全ミニに出ることができなくて、その悔しさは今でも覚えていますね。どんな試合だったか、どんなプレーをしたのかは覚えていないんですが、負けたことはすごく覚えています。小中学校では楽しい思い出が圧倒的に多いのですが、鮮明に覚えているのは負けた試合なんですよね。

6年で全ミニに出たのですが、初めての大会なので何もできずに終わりました。中学では2年の時に全中を経験できたので、それで3年生で決勝まで行けたんだと思っています。そういう舞台での経験は貴重なんだなと、そこで学びました。

「名短に行くために全中へ」という目標

中学校は別に強豪校に行ったわけじゃなく、学区内にある普通の中学校に行きました。ミニバスで5年生の時に県大会の本命と言われていて、その先輩もそのまま学区内の中学校に上がっていたので、中2で出た全中ではその先輩たちが中3でした。東北大会でも勝っているので、弱小ではなかったと思います。

山形では、使える体育館の割り当ての関係で部活が限られます。良かったのは父が指導している山形大学や山形商業、山形銀行という実業団のチームがあって、そこで合同で練習や練習試合をしてもらえたことです。大会前にはなかなかできない試合経験を積むことができ、しかも高校生のチームと頻繁にゲームをしていたので、他の中学校よりずっと試合慣れしていました。

小学校ではただ楽しくやっていただけでしたが、中学校では「うまくなりたい」という思いが強くなりました。きっかけは小6で見たウインターカップの生中継です。その時の決勝が名短(名古屋短期大学付属)と長崎の純心女子で、それを見て「名短に行きたい」という思いが芽生えたんです。

山形は田舎なので、中学で全国大会に出ないと井上先生の目には留まらないと思って、中学ではひたすら練習しました。チーム練習だけじゃなく、個人練習もすごくやるようになりました。大学に一人で行って練習に入れてもらったり、大学生の横でシューティングさせてもらったり。体育館が使えなければ縄跳びをしたり腹筋をしたり。その時の向上心はすごかったです。名短に行くために全中に出る。具体的な目標ができたことで、それまで以上に頑張ることができました。

バスケ一本と思われていそうですが、勉強も結構やりましたよ。両親が先生だし、姉が生徒会長をやっているということもあって、文武両道は嫌でもくっついてきちゃう環境でした(笑)。姉が受験勉強をしていると、家族の雰囲気も『勉強』になるので。テスト期間中はいくらバスケに行きたいと言っても父は許してくれません。でも、当時は渋々やっていた勉強ですが、今思えばその時にバスケットだけじゃなくて良かったです。そのおかげで私は勉強したいという思いが強くて、今も英語やスポーツ心理学に興味があります。

大神雄子が語るバスケ部時代
vol.1「小中学校のバスケは楽しかった記憶しかない」
vol.2「刺激を与えてくれた恩師、先輩、ライバル」
vol.3「このキャラクターは育ってきた環境と出会った人によって作られたもの」