昨年末のウインターカップで東山のエースとして活躍した瀬川琉久は、その1カ月後には千葉ジェッツの一員としてプロデビューを果たした。ケガ人続出のチーム事情を受けて、4月からは富樫勇樹に代わり先発ポイントガードに抜擢され、シーズン最後まで戦い抜いた。束の間のオフもトレーニングに励む瀬川が、激動の5か月間を振り返った。

千葉J入りは「名前が消えるのが嫌だった、と考えた」

──去年の今頃はインターハイの準備をしていました。インターハイで優勝して、ウインターカップでは準優勝。それがかなり昔に感じるぐらい、ここ数カ月は激動だったと思います。千葉Jでの今シーズンをどう振り返りますか。

この1年はインターハイで日本一になって、ウインターカップでは決勝で何もできずに負けて、海外に行って全然通用しない現実を見たり、Bリーグではいきなり試合に出るチャンスをもらって、本当にたくさんの経験ができた濃い1年でした。

ジェッツに来る時は何も分からず心配なことばかりでしたが、プレータイムをもらえていろんな経験ができました。その中で通用するところとそうでないところが明確になり、非常に良いスタートを切ることができたと思っています。

──『バスケットボール・ウィズアウト・ボーダーズ・グローバルキャンプ』に参加したり、海外志向が強いと思われていただけに、ウインターカップが終わってすぐの千葉J入りには驚いたファンも多かったと思います。

実際は「絶対に海外に行く」という感じではなくて、海外かBリーグか自分の中で時期によって揺れ動くところもあったのですが、Bリーグでプレーしたい気持ちの方がちょっと強かったぐらいです。海外にもいろいろ行かせてもらって、全く異なる環境でやるのはギャンブルだと感じるところもありました。

──迷う中で決め手となったのは何ですか?

「名前が消えるのが嫌だった」と考えたことです。海外の大学に行くと、ほとんどの場合は1年か2年かは試合に出られません。そこで力を蓄えた後に大きく飛躍できれば良いですが、その期間を無駄にしてしまう可能性もあります。それならBリーグでも成長できるし、そこで自分の名前を消すのではなく選手としての価値をどんどん高めて、そこから海外に挑戦する方が良いのではないかと思いました。

バスケではなく野球ですが、大谷翔平選手がまさにそうですよね。河村勇輝さんも、僕が悩んでいた時期にはNBA行きはまだ決まっていませんでしたが、Bリーグで成長したことで良い形でNBA挑戦ができていると思います。

──海外に行った時には「全然通用しない」という思いを味わったんですか?

東山にいたら自分が中心選手で、得意なプレーをやっていれば周りが合わせてくれるバスケをやることができました。でも海外に行けば、今までやっていなかったことを求められて、アジア人だから下に見られる状況からのスタートです。そこで信頼を勝ち取っていくには、ディフェンスをがむしゃらにやる、前から当たっていく、誰でもできるようなそういうプレーをどれだけ精一杯やれるかです。海外でのその経験が、Bリーグでのアピールにも繋がっていると思います。

「少しはプロのガードっぽくなってきたと思います」

──高校卒業を前にBリーグでもトップクラブの千葉Jに入って、ほとんどの人の予想を上回る活躍ができました。自分ではどれぐらい通用すると想定していましたか。

別に今も全然通用はしていなくて、できないことばかりなんですけど……(笑)。でも最初はロスターに入ることがまず目標で、多分それもそう簡単にはいかなくて、いろんなところでつまずくだろうと考えていました。チャンスを得られたのは運も良かったと思いますが、そこで自分なりに全力で頑張ってつかみ取れたのは良かったです。

だから、自分で思っていたより通用したな、というのが正直なところです。小さな頃からテレビで見てきたすごい選手たちばかりの中で、手も足も出ないのが最初でした。そこから「意外に何とかなるかも」という小さな自信を得られて、少しずつ通用する部分を増やしていって。でも当然、できないこともたくさんあります。その部分を練習して次に生かして、そうするとまた次にできないことが出てきて。その繰り返しを続けていけばできることが増えていくと分かったのは自分の中で大きな発見です。

──卒業式で東山に戻った時に、大澤徹也コーチからハッパをかけられたと聞きました。

本当に良いアドバイスをいただきました(笑)。怒られたわけではないのですが、「遠慮してるんじゃないか?」と言われて、僕も「確かにそうだな」と。自分ではそんなつもりじゃなくても、周りは有名な選手ばかりで、ちょっと積極的になれていない部分がありました。そこで大澤先生に「それじゃお前の目標には到達できないぞ」と言われて、卒業式が終わってチームに戻った時から一切遠慮しないようになり、そこからはエゴじゃないですけど、良い意味で自分の色を出せるようになったと思います。

──自分の色を出す、具体的にはどんな部分で変化がありましたか。

練習でのマインドですね。相手が(西村)文男さんでも試合と同じぐらい前からガンガン当たって、激しすぎてイラッとさせることもあったと思うんですけど、それをやり続けるから認めてもらえるというか。毎日の練習でそれを習慣にしたことで試合でも出せるようになったと思います。

──4月に入って富樫勇樹選手が左足の捻挫で戦線離脱します。そこで先発ポイントガードに抜擢されたのが瀬川選手でした。プレッシャーのかかる役割を担うタイミングで、自分の色が出せるようになったということですね。

そうですね。千葉Jのポイントガードと言えば勇樹さんですから、勇樹さんがいて自分が途中から出るのと、自分がスタートで出るのとでは、気持ちの面で全然違います。勇樹さんがいてくれれば、僕はただルーキーらしくがむしゃらに、短いプレータイムの中で目の前にある自分にできることを全力でやるだけで良いんですけど、先発になって30分プレータイムがあるとなると、考えることがすごく増えます。その中で一番考えなければいけないのは「チームを勝たせること」で、そのためのゲームメークは大変でしたが、コーチから指摘されたり自分で映像を見返したりして、少しはプロのガードっぽくなってきたと思います。

──プレッシャーを楽しむ余裕はありましたか? そんな悠長な感じではなかった?

最初はプレッシャーしか感じませんでしたが、途中からチームが勝てるようになると、自分の中で手応えを得られることもあって、すごく楽しくプレーできるようになりました。

「あそこでのターンオーバーが一番悔しかった」

──一番の経験はチャンピオンシップでプレーできたことだと思います。ルーキーながら先発を任されたチャンピオンシップは、瀬川選手にとってどんなものでしたか。

アルバルク東京とのクォーターファイナルで、レギュラーシーズンとは全然違う強度に最初は圧倒されそうになったのですが、そこで慌てるのではなく逆に落ち着いていつものプレーができたことで、結果としては自信になりました。

ですが、セミファイナルの宇都宮ブレックスとの試合ではプロの洗礼を浴びたというか、あれだけの『アウェーの環境』を経験したことがなかったんですよね。ホームであれば入場したらバーッと盛り上がって、自分のモチベーションも上げていけるんですけど、ブレックスアリーナでは自分の気持ちを高めるのに苦労した部分があって、そこで宇都宮もレギュラーシーズンとは全然違うプレッシャーをかけてきました。

──宇都宮は瀬川選手を狙ってプレッシャーをかけてきた感じでしたね。

僕がまだ若くてフィジカルもないから、攻撃の起点を潰そうと仕掛けてきて、それにハマってしまいました。もっとフィジカルを鍛えないと、あのプレッシャーの中でボールはキープできないと感じました。あそこでのターンオーバーがシーズンで一番悔しかったですね。

──終わった後は落ち込むものですが、それともすぐに切り替えられますか。

終わった直後は「自分のせいで負けた」と落ち込みました。でも、入ってまだ数カ月ですし、この失敗を糧にして頑張るしかないです。だから今はそれがモチベーションになっています。

──ウインターカップの決勝で負けた後は号泣していました。それでもほんの数週間後に千葉Jに加わり、ずっと高いレベルの中で揉まれて成功と失敗を繰り返して。やっぱり失敗があっても切り替えて次に生かすのが大事ですね。

いや、僕は結構引きずるタイプです。引きずる中で「次はやってやる」という気持ちが出てくるんです。上手くいった時でも1試合を通して見ると必ずどこかで失敗していて、チームに迷惑をかけているので、その分を次で取り返さなきゃいけないと思っています。