シモーネ・フォンテッキオ

バンケロの選択に理解「17歳か18歳の頃の一言で縛るわけにはいかない」

シモーネ・フォンテッキオはNBAでのルーキーシーズンを終えた。ローテーションに食い込んで活躍した時期もあったが、ケガで後退し、シーズン途中のチーム再編になかなかフィットできず。52試合に出場して14.7分、6.3得点という数字は、ユーロバスケットで活躍したイタリア代表の若きエースとしては物足りない。

イタリアの人気司会者、ジャンルーカ・ガッゾーリのポッドキャスト番組に出演したフォンテッキオは「子供の頃からセリエAの選手になるのが夢で、ユーロリーグでプレーする姿も想像できなかった。NBAはどこか遠い別の場所だった」と言う。その認識は最近まで変わらず、オリンピック出場を意識するようになって世界へと視野が広がり、エージェントがいきなりジャズからのオファーを持ってきて仰天したそうだ。

20歳そこそこのアメリカ人のルーキー、外国人でもアメリカの大学を経由した選手とは違い、フォンテッキオはイタリア、ドイツ、スペインでのプロ経験がある26歳としてNBAにやって来た。様々な経験があるからこそ新たな環境への順応は難しく、乗り越えなければならない課題の多い1年だった。

「ヨーロッパで10年のキャリアがある僕は、大学に1年通っただけの20歳とか21歳の選手よりも戦術的な知識は多いし、試合経験も豊富だから有利だと思っていた。でも競争は横一列からのスタートで、彼らはすべてを吸収してこれからキャリアを作ろうとしている。すぐに『ヤバいぞ』と思ったよ」と彼は言う。

再建に乗り出したジャズの状況も彼にとっては難しかった。「3人を放出して10人を獲得するようなトレードがあった。そんなに多くの選手は必要ないから誰かが解雇されるんだけど、それが誰になるのか分からず、チームの全容が見えないまま開幕した。いつチャンスが来るか分からないけど、そこで結果を出そうと全力を尽くす。簡単ではなかった」

一番厳しかったのは、トレードデッドラインでのマイク・コンリーやマリーク・ビーズリーの放出だった。「最初の頃はこのチームはダメだと言われていたけど、それを燃料にしてみんな頑張った。でも、精神的なリーダーだったベテランが抜けて、チームをイチから作り直すことになった。NBAに来たばかりの僕には良いお手本だから、そういう意味でもキツかった」

「でも夢の舞台に立っているんだから、どんな状況であれ楽しまなきゃいけないと思ってた。次々と訪れる新しい出来事を楽しんだ。すごく勉強になったし、次の飛躍に向けた良い準備になったよ」と彼は振り返る。

「一番感謝したい人は?」との質問に、彼は家族の名前を挙げた。「僕らは世界中を一緒に旅している。妻はパンデミック真っ只中に生後7カ月の赤ちゃんを連れて、家族や友人から離れてベルリンに引っ越した。1年後にスペインへ。アメリカに行く時も同じで、文句一つ言わずに荷物をまとめてくれる。言葉にしなくても『どこへでも一緒に行くし、何があっても応援する』という思いが伝わってくる」

大西洋を渡ってアメリカに引っ越すという大変な作業も彼の妻がすべて取り仕切り、フォンテッキオはユーロバスケットだけに集中できたそうだ。「絶対に大変だったはずだけど、彼女はただ笑っているだけ。本当に感謝しているんだ」とフォンテッキオは言う。

今年の夏は引っ越しこそないが、夫であり父であるフォンテッキオはまた家を空ける。間もなくイタリア代表の合宿が始まり、ワールドカップを迎えるからだ。「僕にとって代表チームへの参加はシンプルに楽しみなんだ。ヘッドコーチのジャンマルコ・ポッチェッコを一番上の兄貴とする、仲の良い親戚が夏に集まる感じ」

「コート外が上手くいっていて、バスケのことを必要以上に意識せず自然体でプレーできる時、僕は自分のベストを出せる気がする。キャリアを通じてずっとそうだったと最近気付いたよ。そして、それが一番はっきりと分かるのが代表チームなんだ」

イタリア代表で話題となっているのは、チームに加わると信じていたパオロ・バンケロがアメリカ代表を選択したことだ。イタリアのファンはこれに怒り、嘆いているが、フォンテッキオは動揺していない。「こうなることは予想していた。イタリア側が一方的に彼に入れ込んでいただけで、彼自身がイタリア代表について語ったことはなかったからね。17歳か18歳の頃に『イタリア代表に興味がある』と言った一言で彼を縛るわけにはいかないよ。代表チームに参加する者は、アッズーリ(イタリア代表の愛称)を愛し、そのユニフォームを着る責任と名誉を分かっているべきだ。僕は今のメンバーに自信を持っているし、満足しているよ」