町田瑠唯

文=三上太 写真=三上太、古後登志夫

『バスケット・グラフィティ』は、今バスケットボールを頑張っている若い選手たちに向けて、トップレベルの選手たちが部活生時代の思い出を語るインタビュー連載。華やかな舞台で活躍するプロ選手にも、かつては知られざる努力を積み重ねる部活生時代があった。当時の努力やバスケに打ち込んだ気持ち、上達のコツを知ることは、きっと今のバスケットボール・プレーヤーにもプラスになるはずだ。

PROFILE 町田瑠唯(まちだ・るい)
1993年3月8日生まれ、北海道出身。身長161cmとガードの中でも一際体格は小さいが、それを補って余りある俊敏な動きとトリッキーなハンドリング、そしてバスケットIQの高さで富士通と日本代表での地位を確立する司令塔。コートネームは「ルイ」。

野球とよさこいとの『三刀流』で始めたバスケット

私がバスケットボールを始めたのは北海道、旭川市立西御料地小学2年生の時です。同級生のシオリ(高田汐織)と担任の先生に誘われたのがきっかけですが、それまでは野球をやっていました。やっていたというより、野球をやっていた兄について行き、たまに練習に混ぜてもらう程度だったかな。幼稚園から始めて、1年生でもまだ入団は認められていなかったので、キャッチボールをしたり、たまに打たせてもらったり、ノックを受けさせてもらう感じでした。でも自分としては真剣に野球をしたいと思っていたんです。

そうしたらお父さんが「校内のマラソン大会で学年1位になったら野球のスパイクを買ってあげる」と言うので、そのとおり1位を取って、スパイクを買ってもらいました。結果として2年生からバスケットを始めるわけですが……。

ちなみに校内マラソンは6年間ずっと1位でした。負けず嫌いということもあるけど、2年生でバスケットを始めてからはバスケットに繋がるかなとも考えていたんです。毎年気にしていたのは、1位を取ることもそうですが、1学年上の記録でした。3年生の時は4年生の、4年生になったら5年生の記録を意識して走っていました。

さらに言えば中学に入ってからも校内の持久走(800メートル走)は3年間1位でした。その時も毎年タイムを更新したかったので、夜遅く親と一緒にグラウンドに行って、タイムを計ってもらっていましたね。

バスケットを始めてからも、野球はちょくちょくやらせてもらっていました。キッパリと切り替えたというより、相変わらずお兄ちゃんについていって、やらせてもらっていたんです。今でいえば『二刀流』かな(笑)。いや、当時はよさこいもやっていたので『三刀流』かもしれない。よさこいは札幌で行われる『YOSAKOIソーラン祭り』に参加するなど、大人に混じって結構真剣に練習していました。ただ最優先はバスケットでした。バスケットが休みの日だったり、ちょっと時間がある時に野球をやったり、よさこいは夜遅くからの練習だったので、たまに行くくらいだったかな。

町田瑠唯

「シュートよりドリブルが楽しくてハマりました」

2年生で「バスケットをやりたい」と言った時、お父さんはすぐに「じゃあ買いに行くぞ」とスポーツショップに行って、ウェアやバスパン、バッシュ、カバン……すべてを買い揃えてくれました。

実はお父さんがバスケットをやっていて、3人の子供――お兄ちゃん、お姉ちゃん、私の誰か1人でもバスケットをやってくれたらと思っていたらしいんです。でもお兄ちゃんは野球、お姉ちゃんはバレー、そして私も野球と言っていたのであきらめかけていた時に、私がバスケットをやると言い始めた。気持ちが変わらないうちに見た目から染めようと思って、身に着けるものを買いに行ったそうです(笑)。

しかも私が見学のつもりで行った時から、体育館の隅でドリブルを教えるガチっぷり。ただそのドリブルがすごく楽しかったんです。練習を重ねるうちにさらにうまくなって、それがまた楽しくて……。私はシュートが入って楽しいという感覚ではなく、お父さんにいろんなドリブルを教わって、それが楽しくてバスケットにハマりました。

練習は家でも行われて、好きなテレビを見ながら(利き手の)右手のドリブルが100回なら、左手は400回というように差をつけて練習していました。だからいまだに町田家の床は私のドリブル練習のせいで凹んだままです。壁にテープで枠を作って、そこにパスを出す練習もしていたので、壁も凹んでいます。でも親からすればOKだったみたい。それくらい私がバスケットを始めたのがうれしかったようです。

町田瑠唯

初めての試合、残り3秒から放ったシュート

西御料地ミニバスでの最高順位は、6年生の時の全道大会2位です。決勝戦で苫小牧の萩野というチームに負けた記憶があります。しかも私たちの代までか、私たちの代だけかは忘れましたが、その時は2位だと「全国ミニバスケットボール大会」には出られませんでした。

4、5年生の時も主力組で出ていた記憶はありますが、ミニバスで一番記憶に残っているのは入団して初めての試合です。誘われた時はメンバーがいないからという理由で誘われたのに試合の時には13人もいて、私とシオリ、そしてモエ(西側萌)の2年生はなかなか試合に出させてもらえませんでした。

やっと試合に出してもらえたのが残り3秒。自分たちのスローインから始まるんですけど、私がスローインをして、シオリが繋いで、モエがシュートを打ちました。3秒で、ですよ。3秒しかないのに初心者の2年生だけでボールを繋いでシュートを打ったことを監督やコーチからすごく褒められました。それはすごく覚えていますね。

練習はとりあえずキツかった。毎日やるわけではないし、土日も午前か、午後のどちらだけだったんですけど、とにかくキツかった。でも楽しかったですね(笑)。

監督はすごく厳しい方でした。でもすごく細かく、いろんなことを教えてくれました。だから小学生の時からバスケットの専門用語はかなり知っていたと思います。そのころスクリーンを使うミニバスのチームなんてあまりなかったし、フォーメーションプレーをやるチームも少なかった。でも私たちはスクリーンも使っていたし、フォーメーションもありました。

今はダメだけど、ゾーンプレスを仕掛けたこともありましたね。バスケットIQみたいなものはそのころに植え付けられたのかもしれません。ただ私たちは身長が小さくて、一番大きくてもシオリとモエの157cmくらい。それと同じくらいの身長がもう1人いる程度。当時の私は……139cmだったかな。もちろんガードでした。