ジャパネットホールディングスがプロバスケットボールチーム立ち上げを計画した2020年夏、伊藤拓摩はここに加わった。公募によりクラブ名が長崎ヴェルカとなり、選手を集めてB3リーグに参戦してB2に初挑戦している今シーズンまで、伊藤はヘッドコーチ兼GMという役職にとらわれず、バスケを熟知する人間としてクラブの立ち上げに尽力した。昨シーズンはヘッドコーチ兼GM、今シーズンはGM専任となったが、生まれて間もないクラブは変化も成長も早い。今年1月1日から伊藤は代表取締役社長に就任した。Bリーグ初年度の開幕戦をアルバルク東京のヘッドコーチとして戦った伊藤は、激動の日本バスケ界の中で立場を変えながら、「プロって何だろう」の答えを探し続けている。
「道を示してくれたのはジョン・パトリックさんでした」
──長崎ヴェルカの社長としての話の前に、まずは拓摩さんがバスケのコーチ業を志したきっかけを教えてください。高校からバスケ留学でアメリカに渡り、コーチを志しますよね?
そうです。バスケは同じアパートに住んでいた年上のお兄さんに誘われたのがきっかけで、小学校2年の終わりぐらいにチームに入りました。僕は小学生の時からアメリカに行きたかったんです。マイケル・ジョーダンのビデオを見て感激して、「こんなに上手い選手ばかりのアメリカに行けば、自分も上手くなる!」と思ったんです。それは本当に子供の発想なんですけど(笑)。
小学校6年ではミニバスで全国ベスト8まで行ったんですけど、中学校は結構荒れていて、チームメートがバスケをやめちゃったりして、県大会にも出れませんでした。それで県外の高校から声が掛からなかったんですけど、選手としての夢があったので「アメリカに行こう」と思いました。それでも1997年当時ですから、今みたいにインターネットで調べられるわけでもないし、コネもありませんでした。
そんな僕にアメリカ行きの道を示してくれたのは、今の千葉ジェッツのヘッドコーチであるジョン・パトリックさんです。当時はトヨタのヘッドコーチになる前で、全国をクリニックで回っていたんです。そのクリニックに知り合いの紹介で参加して、僕のプレーを見てもらった上でセントジョーンズという高校を紹介してもらいました。そこのコーチがモントロス・クリスチャンに異動して1年間空いたので、その1年間で英語力を高めて、そこから高校に編入しました。
──アメリカに渡る前から英語の勉強は結構やっていましたか?
中学の時は「バスケだけやればいい」みたいな考え方で、英語は得意ではなかったし、そもそも勉強自体あまりしていませんでした。それでももちろん、アメリカに行って英語は勉強しました。それに当時はインターネットで日本語の情報に触れることができず、日本語の活字がすごく恋しくなって、それまで漫画ばかり読んでいたのに本を読むようになりました。親が学費とか生活費を払ってくれることに対して、中途半端なことはできないという思いもあったので、そういう良い習慣が身に着いたのはアメリカに行ったおかげだと思います、ちょっと遅いかもしれませんが(笑)。
マネージャーとして大学を卒業、トヨタ自動車へ
──アメリカでのバスケ選手としての活動はいかがでしたか?
それがすごく問題があって、日本の中学を卒業してアメリカに行き、9年生を2回やったんですけど、19歳で所属するカンファレンスの年齢制限に引っ掛かり、プレーできなくなりました。ショックでその日の夜は眠れなかったんですけど、明け方には「コーチとして頑張ろう」という気持ちになっていました。それで高校4年生から選手ではなくなり、マネージャーなんですけどコーチ見習いとして練習やドリル、試合前のワークアウトを任されました。
ウチの高校は強かったので大学のコーチが見に来て「あのアジア人は誰だ?」ということもあったみたいです。今はだいぶ緩和されたんですが、当時のNCAAは週に何時間しか練習しちゃいけないなど厳しいルールがありました。でもマネージャーが練習を見るのは問題なかったんです。それでいくつかの大学からマネージャーとして来ないか、奨学金も出す、という話をいただいて、バージニア・コモンウェルス大学(VCU)に行き、卒業して日本に帰って来ました。
──そこからトヨタ自動車に入ったのはどういう経緯だったんですか?
当時のトヨタは棟方公寿ヘッドコーチのアシスタントを探していて、そこで僕の名前が挙がったようです。夏休みで一時帰国していた時に「来年、卒業したら来てくれないか」と話をいただきました。その時に覚えているのは、ジョンさんとランチをした時に、「君の大学のオフェンスとディフェンスを説明してくれ」と言われて、紙に書きながらいろいろ話したんです。その時にジョンさんが良い意味ですごく驚いてくれて。今考えると、そこで試されていたんでしょうね。それでも僕は大学はコーチになるための準備ととらえていて、心理学の授業を取ったのもコーチングに生かせるという理由でした。
──コーチ業は実績がモノを言うと思います。現役を引退してアシスタントで何年か経験を積んでヘッドコーチ、という人が多い中で、大学卒業後すぐにトヨタのアシスタントコーチになることに不安はありませんでしたか?
若いって怖いんですよ(笑)。お話をいただいた時に、自分は準備ができているという自信がありました。そのために19歳からコーチになる勉強をして、経験を積んできたので。それはヘッドコーチになる時も同じで、やってみた結果として足りない部分に気付くんですけど(笑)、当時は自分の中で「できない」とは感じなかったですね。
「長崎に魅力のあるもの、それがスタジアムシティでありヴェルカ」
──Bリーグ初年度をA東京のヘッドコーチとして迎えました。退任後もA東京に籍を置いたままアメリカに行っていましたよね。その時は何をされていたんですか?
トヨタに所属しながら研修生という立場でGリーグのレジェンズにいました。研修生なので表には出ませんが、仕事の内容としてはBリーグのアシスタントコーチと変わらないことをやっていました。A東京にはアドバイザーとしてアメリカから毎月レポートを送って、馬場雄大が最初に来る段階でサポートをしたり、マーベリックスのトライアウトのコーディネートをしました。
──なかなか得難い経験をしていますよね。ヴェルカでもその経験は生きそうです。
すべてが生きていると思います。僕がヘッドコーチをやっていた時のA東京は完全プロへの過渡期で、代々木第一体育館での開幕戦もやらせてもらって「プロって何だろう」ということをすごく考えました。その結論が出ないまま日本を飛び出して、Gリーグで成功しているレジェンズを間近で見て、また違うコンセプトでやっているマーベリックスも見て、サマーリーグなどにもかかわって、これまで「プロって何だろう」と考えた時の課題や問題意識について、かなり分かったつもりです。
「自分が日本に戻る時にはこうしたい」、「バスケットを通じてこういうことがしたい」という自分なりのアイデアを明確に持てた時に、長崎でスタジアムシティプロジェクトが立ち上がり、同じ時期にトヨタでの研修も終わることになり、長崎に来ることを決めました。
──拓摩さんが長崎にかかわり始めた時点では、ジャパネットたかたがJリーグのV・ファーレン長崎に続いてバスケチームの立ち上げを準備し始めたところで、チーム名もロゴも何もない状態でした。どんなオファーが来たのですか?
当時はまだBリーグに参入するかどうかも決まっておらず、それでもスタジアムシティプロジェクトはありました。それがすごく魅力的で、僕が考えてきた「プロって何だろう」の答えであるバスケットボールの価値とか魅力を体現できると思ったんです。人材流出が全国でも一、二を争う長崎に魅力のあるものを作る。それがスタジアムシティでありヴェルカだ、という考え方がすごく明確でした。ゼロからイチを作る上で理念、ミッションを大事にしたい。そこにかかわってほしいという話は僕にとって魅力のあるものでした。
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