文=鈴木健一郎 写真=Kat Goduco Photography

バスケ界の頂点に君臨するアメリカのトップリーグ、NBA。バスケをプレーする者なら誰もが憧れる舞台だが、残念ながら日本人選手では田臥勇太が2004年に4試合プレーしたのが最初で最後。はるか高みにある「夢の舞台」であり続けている。だが、選手ではなくてもNBAの舞台に立つ日本人がいるのをご存知だろうか。アトランタ・ホークスのダンサーを務める阿武夏織は、華やかなコートからどんな景色を見ているのだろうか。

アメリカ留学中のNBA観戦でダンサーになると決意。

(阿武)私は山口県の出身で、4歳からモダンバレエを習っていました。私が習いたいと言ったらしいです。習い始める前から踊ることも好きだったそうなので、小さいなりにコンクールを目指したり、一生懸命やっていたと思います。

でもダンサーよりは、安室奈美恵さんやSPEEDに憧れて、歌手になりたくてテレビの前で歌って踊る小学生でしたね。中学生の頃はTLCなどの洋楽が好きでヒップホップに興味を持ったんですが、当時の山口にはそんな環境がなくて、中学までモダンバレエを続けました。

高校時代はダンスから離れていたのですが、私が通っていた山口県の西京高校は高校野球の応援が学校の伝統になっていて、専属の応援団があるんです。女子は3年生の時だけチアガールになれるので、私も応募して参加しました。

スポーツチームで踊っていると言うと、競技チアのようなプリーツスカートの衣装を想像されるのですが、皆さんが想像するようなチアリーダーの衣装で私が踊ったのはその時だけなんです。県予選でいいところまで行ったのですが、甲子園には行けませんでした。でも、高校生活の中でとても心に残る思い出です。

バスケは昔から好きでした。いとこの影響で小学校の時にバスケを教えてもらって、中学校ではバスケ部に入っていて、平日は部活をやりながら、週に何回かバレエ教室に通っていました。でも、どちらもあまりうまいほうではなかったです。私は運動神経がすごく悪くて(笑)。特にバスケはダメでしたね。人生で運動神経が良いと思ったことがないです。今も泳げないですし、どんくさいとよく言われてました(笑)。

大学のサークルでダンスを再開しました。習うダンスから、自分でやるダンスに変わった感じです。ストリートダンスをずっとやってみたかったので。チアリーディングが強い大学で、すごく華やかで競技の完成度も高かったので体験入部したのですが、「やっぱり私はダンスを踊りたいな」と感じて。ハウスから始めて、ガールズヒップホップをやっていました。

NBAダンサーを目指したきっかけは、大学時代にアメリカに留学したことですね。当時は今ほど英語がしゃべれたわけでもなく、人見知りということもあって、なかなか友達が増えなかったんです。その時に大学のダンスチームの存在を知り、ダンスで友達を増やそうと思ったんです。

ダンスは私にとって言語の代わりになってくれましたね。チームに合格して大学バスケのクォーターで踊ったり、地元のアイスホッケーのプロチームの試合で踊るという経験もできました。

ただ、その時点ではダンサーを目指していたわけではなく、ただ好きだから踊っていて、ダンサーとしての目標は「おばあちゃんになっても趣味で続けていたい」ぐらいのものでした。

そのタイミングでNBAを見に行ったのは、運命の出会いだったのかもしれません。クォーターで試合が中断になると、「暇だなあ」と思う間もなくダンサーがバッと出てきて踊って、その場の空気を変えてスッとはけていく。その瞬間、「NBAダンサーになりたい」という強い衝動を感じて。一緒にいた友達に「私、これになる!」と言ったのを覚えています。しかもそれはホークスのホームゲームだったんです。今アトランタにいることに、すごく縁を感じます。

阿武夏織(あんの・かおり)NBAダンサーのお仕事
vol.1「ファンに楽しんでもらうのが私たちの仕事」
vol.2「NBAを目指すと決めた瞬間」
vol.3「ダンスだけではNBAのコートには立てない」
vol.4「同じダンスは決して踊りません!」
vol.5「率先して騒いで楽しもうとする気持ちで!」