谷口正朋

日本バスケットボール界の一時代を築いた谷口正朋さんが2021年5月3日、75歳で逝去された。サウスポーから放たれる正確無比のシュートを武器に数々の栄誉に輝いた名選手。手元にある月刊バスケットボール(昭和52年4月号)の表紙には力強くゴールに向かう谷口さんの姿があり、ページをめくると取材で聞いた多くの言葉とともになつかしい思い出がよみがえる。思い出の中の谷口さんは常に華やかなエースで、その裏で重ねた努力を見せないような人だった。

努力が開花させたシューターとしての才能

谷口さんのキャリアの中でもっとも大きく報じられるのは1972年のミュンヘンオリンピックで得点王(9試合出場し191得点をマーク)に輝いたことだが、特筆すべきはそのキャリアの出発点が高校入学後だったことだ。東京は神田の生まれ、子どものころから学業優秀、スポーツ万能の優等生だった。将来を見据えて中学は公立の名門と言われる九段中学に越境入学し「スポーツは大好きだったが、勉強を優先していたこともありどこの運動部にも入っていなかった」という。

そのままいけば目指す都立高校から有名大学に進み、まったく違う人生を歩んでいたかもしれない。運命を変えたのは第一志望の都立高校の滑り止めで受けた中大杉並高校(現:中大附属)に合格したことだった。当時の中大杉並はバスケットボールの強豪校として全国に名を馳せ、故野口政勝監督率いるチームは日々ハードな練習に明け暮れていた。

その野口監督の目に留まったのが合格発表を見に来ていた長身の少年だ。「君、うちの高校に入ったらバスケットをやってみないか?」。見知らぬおじさんからいきなり声をかけられた谷口少年はさぞかし驚いたことだろう。「そうですね。最初はびっくりしました。でも、もともと何かスポーツをやってみたいと思っていたので〝バスケット〞という言葉にちょっと興味をひかれました。それと中大杉並に合格したらホッとしてもう受験勉強をする気がなくなってしまったのも事実です。また都立高校目指して勉強するよりここでバスケットをやる方がいいなあと(笑)」

当然のごとく15歳の少年はバスケットボール部の練習がいかに厳しいものであるかを知らなかった。「何も知らなかったですね。練習がどれほど厳しいものか、野口先生がどれほどおっかない人か、ほんと、その時は何も知りませんでした」

「私よりシュート練習をした選手はいない」

入部が決まると、まず「坊主にしてこい」の厳命が下った。それも1年生は地肌が見えるほどの五厘刈りだ。それまで端正な坊ちゃん然とした谷口少年の風貌が一変する。と同時に一変したのは日々の生活。強豪校に集まる強者たちの中で谷口さんの過酷な部活生活が始まった。中大杉並の練習は野口監督が「終了」というまで延々と続く。身体はどこもかしこも筋肉痛で「毎日が自分の限界との闘いだった」というが、不思議と「辞めよう」とは思わなかった。それどころか体幹を鍛えるために登下校の電車の中では常に爪先立ちすることを自分に課し、シュート力をつけるためにチーム練習後の自主練を含めると1日6時間リングに向かったという。

そんな桁外れな生活を休みなく続けられたのは「もっとバスケットが上手くなりたいという気持ちがあったからでしょうね。遅れてスタートを切った自分には人一倍練習するしか道はなかったですから」。1年、2年……磨かれたシュート力は次第に注目を集め、「落とさないシューター」として全国にその名を知らしめていく。バスケットを始めてわずか3年で日本代表入りの話が持ち上がったのも異例中の異例と言えるだろう。

それだけに当時の谷口さんは「天性の才能を持つ稀有なシューター」と評された。その評価に間違いはない。ただ、忘れてならないのは稀有な才能を開花させるために谷口さんが費やした努力の日々だ。186cmのピュアシューターは、整った容姿と相まって『生まれ持った才能』ばかりがフォーカスされたが、その陰には来る日も来る日も休むことなく積み重ねた地道な練習があった。

「私より才能のある選手はいくらでもいると思います。だけど、私よりシュート練習をした選手はそうはいない。いや、私(のシュート練習)を超える選手はいないと思っています」。晩年、笑顔でそう語った谷口さんの言葉は今も忘れられない。

間に合わなかった東京オリンピック

中央大学に進学した谷口さんは卒業後日本リーグの名門、日本鋼管に入社し、2度のMVP、5年連続の得点王、9年連続のベスト5に選出された。全日本総合選手権大会(オールジャパン)に至っては1969年から1978年まで10年連続優秀選手賞に輝く偉業を成し遂げている。日本代表メンバーとして数々の世界の舞台を踏み、名実ともに「日本のエース」と呼ばれた。

あの頃、どれほどの子どもたちが谷口正朋にあこがれてバスケットを始めたことだろう。

現役引退後はバスケットボール協会の理事を務め後進の育成に力を注いだが、「少しでも多くの子どもたちが良い経験を積める環境を」が口癖だったと聞く。そして、出場が決まった東京オリンピックでもまた「日本の選手たちがかけがえのない経験をすることが次代を変える」と経験の重要性を説き、「たとえ負けたとしても(日本の)いいところがたくさん出ればいい。頑張ってほしいですね」と『後輩たち』にエールを送っていた。

コロナ禍で1年遅れたオリンピック開催。病床にありながら画面越しの応援を楽しみにしていたであろう谷口さんを思うと、改めて『間に合わなかった時間』が残念でならない。日本のバスケット界に燦然と輝いたシューター谷口正朋さん、お疲れさまでした。心よりご冥福をお祈りします。