[引退インタビュー]大口真洋、20年のキャリアに幕を下ろす二刀流の春(後編)「ここまでやれたのも皆さんのおかげ」

2018/04/26
Bリーグ&国内
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取材=古後登志夫 構成=鈴木健一郎 写真=三遠ネオフェニックス

三遠ネオフェニックスの大口真洋は1976年1月6日生まれの42歳、B1では折茂武彦に次ぐ大ベテランである。その大口は開幕前に、フェニックス一筋のキャリアを今シーズンで終えることを表明。そのプロ20年目のシーズンが終わりを迎えようとしている今、大口は大学バスケの指導者としてのキャリアをスタートさせてもいる。今年度に創設された浜松学院大の男子バスケ部の初代監督、これが大口の新しい肩書きだ。

[引退インタビュー]大口真洋、20年のキャリアに幕を下ろす二刀流の春
(前編)「大学バスケの勢力図を塗り替えたい」

「すべてのところで良い指導者に出会うことができた」

──大学の話ばかりになってしまったので、あらためて現役時代も振り返りたいと思います。まずはキャリアのスタート、天理大を出てOSGフェニックスに入ったのが1998年のことです。

大学で体育の教員免許を取り、体育の先生になるつもりでした。OSGから連絡をいただいた時に、面接と教員採用試験の日がかぶっていたんです。その電話口で「今、どちらにするか決めてくれ」と言われ、「じゃあ面接にします」と。そうやって始まったキャリアを長く続けられたのは、すべてのところで良い指導者に出会えたからだと思います。皆さん熱心な人ばかりでした。

恩師を一人挙げるとしたら、これはカズさん(中村和雄)で間違いないですよ。あの厳しさがあったから僕はこんなに長くやれたと思います。カズさんは選手の良いところを出し、悪いところを消すのがすごくうまいんです。フォーメーションにしてもディフェンスにしても、世界で戦うために日本人の良さと悪さを徹底的に考えていました。センターを引きずり出してのスパイラルオフェンスとか、そういうクルクル動くオフェンスをやってみようとか。ものすごく厳しい人でしたが、外国籍選手でも関係なく全員に厳しくて、だから差がなくて納得できるんです。何回も殴りたいと思うぐらいに厳しかったですけど(笑)。

また、今のフェニックスで支えてもらったのは鹿毛(誠一郎)さんですね。本当に人が良くて、僕は結構人見知りなので、それをつないでくれた気がします。もう腐れ縁ですよ(笑)。

──対戦相手でライバルだった選手、気になる選手というのはいますか?

ライバルは特に作りませんでしたが、大学の時は石橋(晴行)さんを尊敬していました。大学の2部で一緒だったんです。だからよく対戦して、「この人、半端ないなあ」と思いながら戦っていました。互いに切磋琢磨する、という気持ちがあったように思います。今回の浜松学院大の話が決まった時も、「そんなん言って、また選手やんねやろ?」と言われました(笑)。

気になる選手は田臥(勇太)君ですかね。彼が高3の時に全日本のアンダーでウチの体育館に来て練習試合をしたことがあって、去年たまたまマッチアップできてうれしかったです。富樫(勇樹)君もそうですね。小学校6年くらいの時から見ているので、そういう子とマッチアップできると、こっちで勝手に親心みたいな感じで盛り上がっています(笑)。

「周りを生かして自分を生かす」プレースタイル

──ベテランになるとアジリティなど厳しくなりますが、スペーシングなど経験が生きる部分もまた出てきます。それができたのが大口選手だと思いますが、ご自身ではどう感じますか?

そうですね。僕がここまで現役を続けられたのも、「周りを生かして自分を生かす」というプレースタイルがあったからだと思います。シュートが持ち味だったので、自分が動くことで誰かのためにスペースを空けてあげる。特にベテランになってからは、チームメートに自由にやらせてあげて、それに合わせることを意識していました。その中で自分が結果を出すことも必要なので、ボールが来る来ないにかかわらず、誰かがドライブ、ピックしたらその使いたいスペースを空けてあげつつ、外で待つことを心掛けました。

──ここ一番の勝負どころで決めるイメージがあります。

僕自身、そういう場面が好きだったし、楽しんでいたというのはあります。その感覚が人と違うのかどうかは分かりませんが、尻に火が付かないとやらないタイプではありますね。中学校の恩師が試合をよく見に来てくれるんですが、その先生はいつも「他の選手の調子が良かったら大口は何もせんからな」と言っていました。周りがそう思うなら、そうなんでしょうね(笑)。

──3ポイントシュートだけでなく、守備でも絶妙なスティールのイメージがあります。

そこは大好きです。スティールもリバウンドも、僕はコソ泥ですから(笑)。最近になって思うのですが、僕は動き出したら止まらないんですよ。常に動いているし、常に狙っています。回数としてはミスしているんですが、ずっと狙っている分だけ取れるんだと思います。多分、これはバスケを始めた中学校からですね。先生が言うにはひたすら動いて全部ヘルプに行って、一人でゾーンをやっていたらしいです。

──記憶に残る試合を一つ挙げるとしたら何ですか?

特にないのですが、記録として残るのはファイナルでMVPを取った時の3ポイントシュートを10本決めた試合でしょうね。

「大学も支えられ、愛してもらえるチームにしたい」

──現役時代を通して、「ここだけは他の誰にも負けなかった」というのは?

うーん……ないんじゃない?(笑) 腹筋にしても毎日やると習慣化されて、最初はしんどいけどその後は当たり前になっているように仕向けてきたので。やり切ったという感じではなく、マイペースに続けていたという感じです。

──では、プロ選手として曲げずにやってきたことは何ですか?

周りの人に感謝することですね。色紙に何か書く時も『感謝』と書きます。自分のために努力するのはなかなか続きませんが、周りの人のためにとなれば頑張ることができます。家族のために、応援してくれる人のために、と。そうやって20年間頑張ってきたつもりです。

これもカズさんからの流れですよね。僕と同時に入って、OSGもカズさんの色になりました。一番最初に言われたのはバスケのことではなく、挨拶やゴミ拾いのことでした。礼儀など「人として」というのをすごく大切に教えてくれて、すべてが改善されました。そのおかげでここまで続けられたんだと思います。それを今の選手たちに伝えられているかというと謎なので、そこは僕の反省点かもしれません(笑)。

──直接伝える場もあるとは思いますが、ここでファンに向けてのメッセージをお願いします。

引退すると決めて臨んだシーズンだったので、本当はもうちょっと皆さんにプレーしているところを見せたかったという悔いは残っています。それでも、ちょっとやってみたいと思って始めた実業団バスケでここまでやれたのも皆さんのおかげで、すごく感謝しています。みんなの支えがあってこの結果だとつくづく思います。これから指導者の道に行きますが、大学でもフェニックスと同じように地域の人たちに支えられ、愛してもらえるようなチームにしたいです。

──バスケットがなかったら、全然違う人生でしたね。

バスケットがなかったら何もない人間です。何してるかも分らかないですよ。人として出来上がってなかったですから。人見知りでしたが、バスケットがあるだけでいろんな人といろんな話ができるんです。それがなかったらどうやって生きていたんだろうと思います。バスケットのおかげで大口真洋を作ってもらえました。

──最終的にヘッドコーチとして三遠に戻って来る可能性はゼロではないですか?

ブースターさんたちからはすごく言われるので、一応気持ちの準備はどこかでしておきます。でも、あれもこれもやれないので、まずは浜松学院大でしっかりとしたチームを作ります。