Bクラブのキーマンに聞く
Bリーグも2年目のシーズンを迎え、バスケットボール界が激動する中で各クラブはそれぞれの信じるポリシーと特色を生かして『生きる道』を探っている。それぞれのクラブが置かれた『現在』と『未来』を、クラブのキーマンに聞く。
文=鈴木健一郎 写真=古後登志夫

秋田ノーザンハピネッツは2009年に会社が設立され、2010-11シーズンからbjリーグに参戦した比較的後発のチームだ。Bリーグ1年目のシーズンは善戦実らず降格を余儀なくされたものの、ブースターの熱さはリーグ屈指。2階席の一番上までチームカラーのピンクに染まり、アリーナが一体となったド迫力の応援がどの試合でも繰り広げられる。地域密着型クラブのモデルケースと呼ぶべき秋田はどのようにしてできたのか、そしてBリーグという新たな時代をどう生きていくのか。クラブ設立に尽力し、社長を務める水野勇気に話を聞いた。

留学先で体験したスポーツエンタテインメントの姿

──青年社長として知られる水野社長ですが、そもそも現在の仕事をするにあたってのベースはどこにあるんですか?

縁あって秋田にできた国際教養大学に第1期生として入学しました。入学したのが2004年で、翌年にbjリーグがスタートしています。国際教養大学は全学生に留学を義務付けていて、私もスポーツマネジメントを勉強するために交換留学でオーストラリアの大学に行きました。

高校卒業後にもアメリカのシアトルで1年間、スポーツマネジメントを学ぶために留学していたんです。アメリカはご存知のとおりプロスポーツ大国で、当時はシアトルにいたのでマリナーズとかシアトル・スーパーソニックを見て、スポーツエンタテインメントが当たり前にある環境を体験してきました。オーストラリアでもスポーツがすごく根付いていて、オージフット(オーストラリアンフットボール)という日本では見たこともないスポーツがすごく人気なんです。もちろんラグビーもバスケットも人気で、スポーツがある生活をみんなが楽しんでいました。

ところが秋田に戻ってみると、当時は他競技も含めてプロスポーツチームが一つもありません。そこでチームを立ち上げる活動を始めたのが、そもそもの始まりです。

「秋田プロバスケットボールチームをつくる会」の活動では、当時bjリーグの多くのチームにお世話になりました。いろんなチームにお邪魔して勉強させてもらいながら、事業計画書を作って出資を募って。それで今の会社ができて、2010年にbjリーグに参入しました。

──こう聞くとあっさりですが、ゼロからプロクラブを作るのは大変だったのでは?

お金集めは大変でしたね。プロバスケットボールクラブを望む人は当時からいて、あとはお金を集めれば当時のbjリーグの仕組みだったらドラフトとフリーエージェントで選手も揃えられたので、とにかく出資を募ることでした。ですが、今も専務をしている高畠靖明と2人で署名活動をしていた頃は活動費すら持ち出しです。ただ、できると信じて疑わずにやっていました。

「世の中は本気になって動けば変えられるんだ」

──バスケットボールの仕事をしたかったのか、スポーツマネジメントをやりたかったのか、もともとの志向はどちらでしたか?

勉強していたのはスポーツマネジメントです。しかし、その世界でやりたいかどうかは分からない部分がありました。それ以前に、小さい頃から自分で会社をやりたいという考えでいました。父親が会社を経営していて、自分も漠然と起業するものだと思っていました。だから大学選びの際も、スポーツマネジメントを学ぶというよりは、交換留学の制度があって、英語とビジネスを学べる特色から選んでいます。入学して留学先を探す際に、オーストラリアのグリフィス大学というところにたまたまスポーツマネジメントのコースがあったんです。

──社長になったのは26歳ですよね? 起業を志していたにしても、誰にでもできることではないと思います。

別に私はお金があったわけじゃないので、自分で立ち上げられるとは思っていませんでした。出資を募るための事業計画書を作っていたら、最初に大きな出資をしてくれた方から「お前が社長をやれ」と。当時の私は社会人経験もロクになくて、出資者が連れてくる社長の下で働くと思っていたのですが、結果的にやりたかった起業が多少早まりました。

最初はお金を集める人脈もなくて、「なんとかなるかな」と「1億なんてどうやって集めよう」という両方の気持ちでした。それでも、とにかく動いていくことで道がひらけました。自分が動いていくことで、どんどんいろんな人に助けてもらい、応援してもらいながら問題解決ができていく。その時に感じたのは「世の中は本気になって動けば変えられるんだ」ということです。

「つくる会」にしても、最初は駅前の署名活動からでした。でも、やるうちに応援してくれる人が増えてくる。それは徹底的に自分たちから動いたからだと思います。

チームができた当初から『声を出す』ことを大事に

──起業したかった水野社長が徹底的に動くことで会社を立ち上げました。でも『なぜバスケ』だったんですか?

それはやっぱり秋田だからです。能代工業高校という全国優勝58回の、バスケをやっている人なら誰もが知ってるような高校があるのが秋田県です。30数年前には秋田いすゞ自動車という一地方の実業団チームが天皇杯で優勝しています。だから秋田は自分たちで『バスケ王国』を名乗っても他県から文句を言われません。その秋田にプロスポーツチームがない状況であれば、自然とバスケになりますよね。

私はそれまでの経験から、プロスポーツチームの持つ力はすごく大きいと感じていました。単純に娯楽の一つとしてスポーツには大きな魅力があります。さらに地元のプロスポーツへ向けられる郷土愛も、どの地域にもあります。『おらが町のチーム』を応援する楽しみは秋田にもあるべきだ、と強く感じていました。そうなると最も可能性があるのはバスケです。かつ雪国なので、冬場でも楽しめるアリーナスポーツというのも大事でした。

冬の秋田は本当に天気が悪くて、ほとんど晴れないんです。だからと言ったら違うのかもしれませんが、自殺率も全国でワーストを争います。だからこそ、冬でも天候に左右されずみんなが楽しめる、老若男女が声を出せる場が必要でした。今もそうですが、チームができた当初から『声を出す』ことを大事にしています。

──なるほど、実際に秋田まで来て分かったのは、ただお客さんがたくさん入っているだけでなく、試合に対する『入れ込み度』や『参加率』が高い、つまりは声が出ているということです。

今まで秋田には、郷土愛を表に出す場があまりなかったと思うんです。本当はみんな秋田のことが好きなのに、その感情を表現する場がない。今のウチの会場は、声を出すことでストレス発散になる、そして秋田を意識してもらうということを重視しています。