NBAの社会貢献活動とグローバル化に多大な貢献
NBAオールスターではコート外でも多くのイベントが行われる。その一つであるNBAアフリカの関係者を集めたレセプションパーティーで、NBAコミッショナーのアダム・シルバーは『ディケンベ・ムトンボ・グローバル・ヒューマニタリアン賞』の創設を発表した。これは社会正義や健康、教育など世界的な人道的努力に貢献した個人や団体を表彰するもので、来年から受賞者には人道的活動をさらに推進するための助成金と、受賞者が選んだ慈善団体への寄付金が贈られる。また、NBAはアフリカ各地にムトンボをモチーフとしたデザインのバスケットボールコートを、現役時代の彼の背番号にちなんで55面建設することを発表した。その最初のコートはムトンボの故郷、DRコンゴのキンシャサに作られる。
その場に集まったアフリカのバスケ関係者からは歓声が上がった。アフリカバスケ界にとってムトンボの存在がどれだけ大きいかは、その反応を見れば明らかだ。
10代のムトンボは医者を志したが、身長218cmでなおかつ動けるバスケの才能により彼はアメリカに渡ることとなった。1991年にナゲッツでデビューし、サイズと身体能力、ガッツを生かしてリーグ屈指のリムプロテクターとなった。3年連続のブロック王、2年連続のリバウンド王に輝き最優秀守備選手賞を4度、オールスターに8度選出され、2009年までプレーを続けた。
かつて彼は「アメリカでは成功が自分のためになる。アフリカでは成功が家族のためになる。今まで多くの人に助けてもらって、今度は僕が人々を助ける番だ」と語った。1996年にフリーエージェントになった時、彼がホークスを選んだのはアトランタが人種的多様性に富み、アフリカ系アメリカ人のコミュニティが大きく、自分の活動がやりやすいと考えたからだ。
長きに渡るムトンボの社会貢献活動の最初は、スクールバスを母国に贈ることだった。また、母国の女子バスケ代表がアトランタ五輪に参加するための費用を負担した。ただ自腹を切るだけでなく、自分の知名度を用いてこの活動を告知し、内戦でいかにDRコンゴの人々が苦しんでいるか、特に医療施設の貧弱さがどんな問題をもたらすかを人々に知らしめようとした。
若い頃に抱いた医者への夢はあきらめたが、『アフリカの人々を助けたい』という気持ちは変わらなかった。彼がNBAで活躍するようになった時期に母国で内戦が勃発し、国に帰れないまま母を亡くしたことがきっかけになり、ムトンボはNBAプレーヤーとして活躍すると同時に夢の実現に動き出した。1997年に『ディケンベ・ムトンボ基金』を創設し、自分の知名度を使って寄付や出資を募り、DRコンゴで病院の建設と運営、医薬品の提供、エイズやポリオといった感染症対策など母国の医療向上に努めた。
彼は正義漢であると同時に、常に誰かと一緒にいて、人種や立場の分け隔てなくおしゃべりするのが好きな人物でもあった。10人兄弟の7番目に生まれ育った環境がそうさせたのだろうが、彼の周りにはいつもたくさんの人がいた。ファンサービスをファンサービスだと受け止めず、相手チームのファンともおしゃべりするのが大好きだった。ファンが100人いれば全員と握手や記念撮影をして、数人しかいなければその人たちと数分かけておしゃべりを楽しんだ。
その人当りの良さが、物事を良い方向に動かした。1991年のNBAドラフトで彼が1巡目4位指名を受けた時、当時のNBAコミッショナーだったデイビッド・スターンは「私はアフリカに行ったことがないんだ」と言った。何気ない雑談の一言に対する「よければ一緒に」というムトンボの返事が、今のNBAとアフリカの密接な関係を生み出したと言っても過言ではない。1993年、ムトンボはスターンを連れて南アフリカに行き、ネルソン・マンデラに会った。この時期、ムトンボの存在と行動は始まったばかりのNBAのグローバル化を大きく推進し、特にアフリカバスケ界には多大な影響を与えた。
そのムトンボは2024年9月30日、脳腫瘍のため58歳の若さで亡くなった。NBAは追悼のメッセージを出し、アフリカにルーツを持つ選手たちは涙を流しながら彼の偉大なる貢献を称えた。
両親がナイジェリア出身で移民としてギリシャに生まれたヤニス・アデトクンボ、アメリカとフランスの二重国籍を持つカメルーン生まれのジョエル・エンビードといったスター選手も同様だ。彼らはムトンボが建てた病院で命を救われたアフリカの人たちと同様に、ムトンボがNBAにアフリカ人プレーヤーの居場所を作ってくれたと信じている。DRコンゴで生まれ育ったジョナサン・クミンガは「ムトンボはNBAでプレーした最初のDRコンゴ人であり、僕のような多くの若者が夢に挑戦するのを助けてくれた」と語った。
マイケル・ジョーダンはムトンボへの追悼として「彼はバスケを変えたが、もっと重要なのは世界を変えたことだ」と語っている。ムトンボはバスケをプレーしながら世界を良い方向に変えようとした。彼が死んでもその志が消えることはない。