日本バスケ改革の旗手、三屋裕子JBA会長(後編)「自分の意思で人生を生きたい」

2019/01/01
日本代表
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三屋裕子

文=鈴木健一郎 写真=前田俊太郎

川淵三郎からの「ちょっと助けてくれない?」という電話から、三屋裕子の挑戦が始まった。日本バスケ界の混乱期、簡単な仕事ではないのは誰の目にも明らか。それでも2020年の東京オリンピックは決まっており、ここを最初の目標として、ガバナンス改革、新リーグの成功、代表チームの強化と、様々な課題を解消しなければならなかった。今も世間では、三屋裕子と言えば「ロス五輪で銅メダルを獲得したバレーボール選手」のイメージが強いのかもしれない。だが、今は日本バスケットボール協会の会長としてリーダーシップを発揮し、ドラスティックな改革をリードしている。東京オリンピックまであと1年。改革のリーダーにこれまでの道のりと2019年の抱負を聞いた。

「自転車から降りないまま次の人生に行きました」

──現役アスリートとして大きな成果を収めた人でも、セカンドキャリアで苦労することは珍しい話ではありません。Bリーグもこれからこの問題に直面します。その競技に打ち込んでいたことを言い訳にせず、引退後も自分の生きる道を見いだすための秘訣はありますか?

そもそも現役時代、15歳で親元を離れて1人で東京に出ると決めたのは私自身です。「オリンピックに出たいなら実業団じゃないとダメだよ」と言われたのに大学に行くことを決めたのも私だし、実業団で日立に行くのも自分で決めました。全日本の遠征中に教員試験を受けたし、二次試験のためにブラジルから帰ってきたのも確かです。

私は父親に「金メダルじゃメシは食っていけないんだからな」と言われたのがずっと頭に残っていて、バレーを生かしつつ生活するには学校の先生だろうと考えていました。それに、一度立ち止まってしまうと動かない怠け者だと自分で自分のことを思っています。坂道を自転車で上っているようなもので、一度降りたら漕ぎだすのは大変でしょ? だから私は自転車から降りないまま次の人生に行きました。一回きりの人生だったら自分の意思で生きてみたいし、自分で決めて、地に足を着けた人生を送りたいと思ってきました。

だからオリンピックの2週間後には先生になったんです。セカンドキャリアというかデュアルキャリアですね。どこかでキャリアが終わった時に次を探すんじゃなく、パラレルで考えないと軌道修正ができません。

──女子のバレーボールは人気種目で、オリンピックでメダルを取ればチヤホヤされると思います。そこで自分を見失ってしまうことはありませんでしたか?

テレビ出演して「オリンピックの三屋です」と言えば「あっ!」と言っていただける。選手をやめて10年ぐらいは会話の糸口で使えます。ただ私の場合は学校の先生になって、生徒から見れば前回のオリンピックに出ていた選手だからワーワー言ってくれるんですが、職員室に帰ると「今までは今まで」と、かなり厳しくされましたよ。ただ、それは相手側から見ると、私が世間や仕事としての常識を知らなかったり、できなかったりしただけなのかもしれませんよね。それまではバレー界を応援してくださる方々とだけ向き合っていたから、みんな私のことを知っていましたし、多分いろいろなことが許されてきたんだろうと思います。でも、後ろを向いたら私のことを知らない人は世の中にこんなにいるんだ、って。バレーの三屋裕子は1984年の8月で歩みを止めたんだから、これからは自分で考えて生きていかなきゃならないぞって、職員室でのそういった経験がそれを気付かせてくれました。それが26歳の時のことです。

三屋裕子

「2020年は『SLAM DUNK』以来の幕開けの年に」

──ちなみに1964年の東京オリンピックにはどんな記憶がありますか?

ほとんど記憶がないです。福井の田舎だったし、当時は家にテレビがありませんでした。だからお風呂屋さんで見ていた記憶があります。まだ幼稚園だったので、興味があったのはスポーツよりもディズニーですね。オリンピックを最初に意識したのは1972年の札幌オリンピックですね。バレーを知ったのは『アタックNo.1』で、『東洋の魔女』ではありませんでした(笑)。

──2020年の東京オリンピックがいよいよ来年に迫っています。新しい東京オリンピックにはどんなことを期待しますか?

JBAとしては5人制と3人制、それぞれ男子と女子の4カテゴリーを出場させて、なおかつ女子はメダルが射程圏内なので、それを意識してこれからの時間を過ごす必要があります。男子も渡邊雄太がいて八村塁がいて、アヴィ(シェーファー・アヴィ幸樹)や渡辺飛勇もいるので、スタートの選手が全員2メートルを超えることもありそうです。技術面も人気もここに来て1ランク上がっています。日本のバスケット熱をもう一度呼び起こす、『SLAM DUNK』以来の幕開けの年にしたいです。

もう一つはスポーツ人として、東京オリンピックは日本のレガシーにならなければいけないということ。スポーツ界にとってはここが大きなステップアップの機会になります。オリンピックってたかだか20日間です。その後が『夢の跡』になってはいけない。「東京オリンピックで世の中がこう変わりました」と示すためには、ここからの1年半をどう過ごすかが大事です。それはスポーツにかかわっている者の責務です。

ただのお祭りにしてはいけません。日本は高度経済成長期ではなく、成熟期から老齢期に入って人口も減っていきます。そこにスポーツがどんな形で貢献できるか。そのためにはアリーナという存在が大きくなるし、街づくりや地域活性が、オリンピックを契機に爆発してくれることを願います。

ここまでの準備段階を見ていると、ハードは税金の無駄遣いのハコモノで終わりそうでちょっと怖いです。オリンピックが終わった後、そこに魂を入れるのは我々スポーツにかかわる者の責任であり、これまでとは違う発想でのモノ作りが必要になってくると思っています。

三屋裕子

「世界に『戦える準備ができた』と言えるように」

──Bリーグができて、各地でアリーナ建設構想が進んでいます。税金の無駄遣いのハコモノで終わらないために、日本バスケットボール協会として何ができますか?

これまでのようなコストセンターからの脱却ですが、一つ大変なのはサッカーと違ってインターナショナルマッチデーの設定がないことです。今はまだユーロやNBAとFIBAはうまく連携できていません。いろんなところを見ていると、リーグと協会での対立関係は結構多く、それで代表の運営ができていないところもあります。代表のマネジメントをするためには、リーグとの関係性はすごく大事です。リーグは大きくなればなるほどコントロールが難しくなります。大河、田中、三屋の体制は、リーグと協会が対立関係にならないよう気を付けていますし、ビジネス化する際には今のままでは難しいので、インターナショナルマッチデーを設定するよう要望していくつもりです。

──この2019年の三屋会長の抱負をお願いします。

直近では2月のワールドカップ予選、Window6を勝ち抜いて、3月に胸を張ってFIBAのセントラルボードに行き、「間違いなく日本は東京オリンピックに出られる」と言えるようにするのが私の第1クォーターの役目になります。第2クォーターにはテストマッチが入ってくるので、それを通じて課題を洗い出します。第3クォーター、第4クォーターになると強化の部分でお金が必要になってくるので、スポンサーさんと接触していくことになると思います。

前半は競技レベルで活動する時間が多くなると思いますし、後半は財政レベルでの活動が増える1年になると思います。いずれにしても2020年のためにバスケットの基盤をしっかりと作り、世界に「戦える準備ができた!」と言えるように、この1年を頑張っていきます。