日越延利

沖縄県は日本を代表する『バスケの地』だ。しかし、その由来を県外の人が知る機会は多くない。FIBAバスケットボールワールドカップ2023の開催地として、沖縄×バスケットボールの注目度が右肩上がりに高まっていく中、長きに渡って沖縄バスケの発展を支えている沖縄県バスケットボール協会専務理事の日越延利に、街の公園にバスケットボールのリングがあり、そこで老若男女を問わずプレーを楽しむ光景が当たり前となるまでにはどんな背景があったのか、沖縄にバスケが浸透している理由と、来年に行われるワールドカップについて語ってもらった。

「初めて天皇杯に出場した時には、トム・ホーバスさんと対戦しました」

──まずは、日越専務理事とバスケットボールのかかわりがどう始まったのか教えていただけますか。

バスケットボールを始めたのは首里高校に入ってからです。受験の時から私の側を離れなかった先生がいて、そこで「入学したらバスケ部に入ってほしい」と言われたのがきっかけです。そこから毎朝のシューティンなど人の倍ぐらい練習をし、高校2年の時には沖縄代表になっていました。大学進学の際には本土の学校からも誘われていましたが、行きませんでした。それは沖縄に残って、とにかく沖縄で日本一になりたい気持ちがあったからです。そのために大学を卒業して社会に出て白石グループという会社に入って、日本一を目指すクラブを作りました。

沖縄出身で高校、大学でスカウトされて本土に行った後、卒業後は沖縄に戻りたいと思う選手はたくさんいるけど、彼らの就職先はなかなかありませんでした。白石グループには、ホテル、レンタカーなどいろいろな会社があるので、そこに就職してもらい、沖縄に帰ってプレーを続けたい選手たちを集めてチームを作りました。当時は他にもいくつかの企業さんがチームを作ってくれ、お互いに切磋琢磨して日本一を目指していました。

会社に協力してもらって遠征し、九州大会にも行かせてもらいました。白石クラブとして初めて天皇杯に出場した時にはトヨタ自動車と試合をし、今では男子日本代表のヘッドコーチであるトム・ホーバスさんと対戦しました。結果は当然のように負けてしまいましたが、20点差くらいだったと思います。ホーバスさんが女子日本代表のヘッドコーチだった時に再会していて、この話で盛り上がりました(笑)。

──現役を引退された後、沖縄県バスケットボール協会で要職を務めてこられました。

引退した後、国体の男子監督を8年間させてもらいました。それでもベスト4、決勝敗退と、あと一歩のところで優勝できませんでした。その後、女子の監督も10年間させてもらいましたが、最高でもベスト8でした。沖縄女子チームでは今までで一番強いと自信のあるチームを作った年がありましたが、優勝した栃木県の白鷗大学と1回戦で対戦して競り負けたこともあり、僕はくじ運が悪いと思って、辞めて若い人にチームを託すことにしました。

協会に関しては白石クラブを作った時、当時の協会の会長や理事の皆さんが「沖縄のバスケを盛り上げるための選手の受け皿になってくれた」と喜んでくれて、非常に助けてもらっていました。その時から協会に入ってほしい、理事になってほしいと言われたこともあって、協会に入りました。

琉球ゴールデンキングス

「ボールが1つあれば、すぐに近所の子供たちが集まって2対2、3対3で遊ぶ」

──沖縄はバスケットボールが盛んですが、そこにはどんな背景があると思いますか。昔はテレビでNBAを見ることができ、それが理由の一つとしてよく言われます。

NBAが見られたのは今の沖縄市、コザと呼んでいたところです。米軍基地の電波が届いているので、NBAの英語のテレビ中継が見られましたが、他の場所では無理でした。ただ、NBAに限らずアメリカのバスケットボールとの触れ合いはあり、基地の中の高校と、沖縄の地元の高校による交流試合はよく行われていました。そこで同じ年齢でも自分たちより大きい選手たちと普通に戦っていくことで、身長差のある中でも積極的にチャレンジしていく姿勢が沖縄の選手たちに広がっていったと思います。

環境面でいうと、バスケは道具がいらないのが大きいと思います。沖縄は子供が多く、ボールが1つあれば、すぐに近所の子供たちが集まって2対2、3対3で遊ぶ。そこには年齢差は関係ありません。お父さんお母さんが忙しい時、お兄ちゃんお姉ちゃんが下の子供たちも連れて行って、みんなで楽しむ。それが継続されて今に繋がっているということがありますね。

──沖縄にはいろいろなところにバスケットゴールがありますが、昔から行政などがゴールを作っていたのですか。

昔から公民館の庭の大きな木にバケツみたいなものをぶら下げたゴールがありました。先輩たちに聞くと、どこからかゴールになるものを探してきては、それを木にくくりつけて庭で練習したりしていたそうです。公民館だとか各地域に、そういう手作りのゴールがあってそこでバスケットボールをやっていました。それと、外国人の方は基地の中だけでなく外にも住んでいます。彼らが外でシューティングをしていると、沖縄の子供たちは2対2をやろう、3対3をやろうとすぐに挑戦しにいく。そういう遊びは普通にやっていました。このように沖縄ではバスケットボールがずっと身近な存在で、ここまで来ています。

──沖縄のバスケは独特と言われています。それは沖縄県の人も感じることですか。

昔からとにかく沖縄の選手は、自分より大きい人たちを1対1で抜きたい気持ちを持っています。本土のチームが組織のセットプレーで攻めようとする中、沖縄の場合は1対1で攻めてこい、突破してこいというのが特徴でした。バスケットボールは身長だけでない。スピードで抜いてやる。1対1なら誰にも負けない。そういう気持ちを持った選手が生まれやすい環境はあると思います。

指導者もチームを作る時、自分の型にはめるのではなく、選手の個性を伸ばしてあげる雰囲気は県全体で昔からありました。それは今、琉球ゴールデンキングスでプレーしている岸本隆一選手、並里成選手たちのずっと前から変わっていないです。サイズが小さいので、オーソドックスに相手と同じことをやっていたら勝てない。小さいからこそのいろいろな工夫は、彼らの先輩たちからずっと続いていることです。

岸本隆一

「子供たちが沖縄出身のプロ選手を見て、真似をして学んでいきます」

──今、多くの県出身選手がBリーグで活躍していますが、先輩としてどのように見られていますか?

沖縄のバスケ界からしたらうれしいことです。小学生、中学生の子供たちが沖縄出身のプロ選手を見て、真似をして学んでいきます。今のBリーグの選手も、先輩たちから沖縄のスタイルを引き継いできました。沖縄のバスケは独特に見えるかもしれないですが、このように繋がっています。今、BリーグではB1、B2を含めると、たくさんの沖縄出身の選手たちがいます。特にガードが多いですね。それも私たちの先輩方が築いてくれた土台があってこそで、今この積み重ねが花開いています。

──選手だけでなく、指導者や裏方でも沖縄出身の人たちの活躍が目立っています。

指導者でいうと琉球ゴールデンキングスで指揮を執り、今はサンロッカーズ渋谷でヘッドコーチをしている伊佐勉さんとは昔から付き合いが長いです。私が国体の監督をしている時に彼がキャプテンだったという関係ですね。他にも素晴らしい選手がいて、愛知県、神奈川県と強豪を破って決勝まで進出した時がありました。沖縄の成年男子が初めて優勝できると期待された決勝戦、熊本県が相手でしたが私の目の前で3ポイントシュートを決められ、あと一歩で敗れてしまいました。

彼のことは『ムー』と呼んでいますけど、「俺が日本一の監督になれなかったのはムーのせいだ」と言うと、「何を言っているんですが、決勝まで行けたのは僕のおかげです」と言い返されて、いつも遊んでいます(笑)。

ムーは高校でも国体の選手で、専修大に行って就職をして社会勉強もしています。人の気持ちも分かってキャプテンシー(キャプテンとしてチームを統率する力、指導力)も高いです。それにプラスしてバスケの技術があり、後輩ですが本当に尊敬しています。これからの沖縄のバスケ、日本のバスケを引っ張っていくような良い指導者だと思います。

また、現役引退後、Wリーグのデンソーで活躍した伊集南さんはWリーグの理事を務めています。トヨタ自動車の久手堅笑美さんは日本代表にも選ばれた名選手で、今は沖縄に戻ってくれて子供たちの刺激になっています。元レバンガ北海道の松島良豪さんは今、大学のヘッドコーチをしていて、合宿で沖縄に来て子供たちと交流をしてくれます。そうなって、みんなが今までの経験を繋いでくれることで、沖縄のバスケはこれからも明るく、希望が持てます。

スポーツアイランド沖縄

取材協力=スポーツアイランド沖縄