ウインターカップ優勝で2019年を終えた河村勇輝は、実家でのお正月をゆっくりと過ごして福岡に戻って来た。あとは卒業を待つのみで、福岡第一高校ではもう授業もバスケ部での活動もないのだが、彼は練習に来て後輩たちのサポートに回っている。次なる挑戦へ向けて準備を進める彼と、それを親の気持ちで見守る井手口孝コーチに話を聞いた。
「先輩にも先生にもあまりかかわらんように」
──ウインターカップを最後に高校バスケを引退した河村選手とともに、今回はその3年間を振り返りたいと思います。
河村 3年間が早かったです。バスケ以外のことは学校の行事とかもほとんどやっていなかったのですが、バスケがそれ以上に濃厚だったので、すごく充実していました。今はもう自宅学習になって授業もないのですが、何日か前から練習に顔を出しています。リラックスして体育館に入ることができるのって、すごく気持ちが良いですね(笑)。肩の荷が下りたので、安心して井手口先生とも話ができます。
井手口 朝がゆっくりになった(笑)。
河村 そうですね。リラックスして昼すぎから練習に来ています。
──井手口先生は3年生とは逆に、新チームになって休む間もない感じですか?
井手口 終わった瞬間にこれまでのチームはもう終わりで、元旦の11時11分から練習を始めました。今日も3時間があっという間です。3年生はそれぞれ自分で大学入学までにどれぐらい一生懸命やれるか。今まではウインターカップで終わりだったのですが、今年は「自分のためにもなるし、後輩のためにやってあげたら?」と言ったのですが、みんな自宅学習期間で自由にやっているみたい(笑)。それでも昨日は実家が遠い子を除いては3年生は揃って練習に来ていましたね。
──今回は河村選手の3年間を振り返りたいのですが、河村選手の入学当初の印象はどんなものでしたか?
井手口 入学する前から練習には来ていましたが、いつも足が痛そうだという印象でした。ひざに故障を抱えていたから、靭帯までではなくても細かい問題があるんだろうと、河村と小川麻斗は1年からメンバーに入れるつもりだったのですが、その不安があるので最初はあまり試合では使わなかったんです。4月の終わりの招待試合で、小川と2人で出したら相当に良かった。ただ河村は身体のことがあったので、1年のインターハイでのプレータイムはそれほど長くはありませんでした。そこからU16日本代表でガードが足りないという話になり、河村がピックアップされました。それが彼にとって初めての日本代表で、その活動と並行しながらやっていく中で開花したと思います。
──河村選手は福岡第一と井手口先生の第一印象はどんなものでしたか?
河村 小さい頃から並里成さんの試合は見ていましたし、能代インターハイで延岡と福岡第一の試合も見ていたので、井手口先生のことは知っていました。テレビで見るとずっと怒っているイメージだったのですが、実際に会うとすごく優しいので、オンとオフがはっきりしている印象でした。1年生の時は練習でも結構オドオドしてたと思います(笑)。
井手口 そうだっけ?
河村 最初は先輩も怖かったんです。「先輩にも先生にもあまりかかわらんようにしないと」って感じでした(笑)。
「河村のシューティングを見るのが楽しみでした」
──そんな関係が変化していったのはどのあたりでしょうか?
河村 1年生の頃は一方的に何か言われるだけだったんですけど、2年生になってポイントガードを任せてもらって、自分が疑問に思ったことや感じたことは、試合中でも練習中でも直接伝えるようになりました。その部分は自分の成長だと思います。今はこうしてくだけた感じでいられますけど、それは部活が終わって気が抜けているからですね(笑)。
──3年間でプレーヤーとしても人間としても大きく成長したと思います。間もなく福岡第一を巣立っていきますが、井手口先生はここでの3年間を経て、河村選手にはどんな人間になってほしいと思いますか?
井手口 人としての部分はこのままで心配ありません。ただ、あまり無理しないこと。チームのため、学校のために良く見られなきゃいけないし、頭の良い子だからそこまで考えるけど、厳しい世界に入っていけば時には人から嫌われるくらいの覚悟も持ちあわせないといけない。「人から何を言われようと」という考え方が必要なこともあるでしょう。そういう時には「最後は自分が一番大事」ということで行動を決めていけたらいいと思います。
──3年間での一番の思い出はなんですか?
河村 反抗してしまった時期のことですね。今になって思えばバカだったと思うんですけど、素直になれない自分がいて、あの時に練習後にめちゃくちゃ怒られて、「やっちゃったなあ」という感じでした。
井手口 「いいよ、お前のチームが日本代表なら東京に帰れ。チケット代は出してやる」と言いました。
河村 日本代表に選ばれてちょっと思い上がってしまったんですけど、それがあって日本代表のことだけじゃなく、自分を取り巻くいろんなことへの考え方が変わったと思います。
──井手口先生は、怒った以外の河村選手への思い出は何かありますか?
井手口 1年のウインターカップの準決勝で大濠で負けた時に、河村が落ち込んだのはあまり気づきませんでした。3ポイントシュートを10本打ってすべて外したのも分かっていなかった。私自身が試合に入り込みすぎて負けたんです。だから選手もあの試合ではいつもとは違うところで戦っていたのかもしれません。あの試合の後から、チーム練習が終わってご飯を食べて体育館に戻って来てのシューティングに付き合っている時、河村のシューティングを見るのが楽しみになりました。スキルコーチならともかく、ヘッドコーチがシューティングを見ていて楽しいはずはないんです。だから、これは後にも先にもないことかもしれませんね。こうやって向き合える選手と次はいつ巡り会えるんだろうと思いました。
「井手口先生に良いところを見せたい」
──では河村選手、厳しさと優しさ以外の井手口先生の意外な一面はありますか?
河村 アメリカに行った時にデーブ・ヤナイさんとシャンパンをおいしそうに飲んでいました。すごくオシャレなところでご飯を食べて、先生が「今日だけは許そう」と言って。お酒を辞めてから勝ち続けていると聞いていたので、「ウインターカップ大丈夫かな?」って疑問に思ったんですけど、それでも勝てたから良かったです(笑)。
井手口 恩人のデーブさんに会うのが15、16年ぶりだったので、会った時からボロボロ泣きました(笑)。
──バスケ漬けではあってもスポーツクラスではなく特別進学コースでしたから、勉強も頑張ったんですよね。
河村 そうですね。僕は中学の時にバスケ以上に勉強をやっていて、基礎がある程度できていたので、授業で苦労することはあまりなかったです。中学の時に学んだことの応用で、テスト期間中でもササッと勉強を済ませれば、あとはバスケをやっていてもテストの点は取れていました。授業中に寝てしまうこともありましたけど、「ここはちゃんと起きて聞いておかないといけないぞ」というのはちゃんと分かるタイプです(笑)。
──井手口先生、その河村選手もここを巣立っていきます。この先、彼について心配することは何もありませんか?
井手口 これから大学とかプロになった時にちゃんとした環境を与えてもらえるのか、そういう心配はあります。ウチは高校としては、場所にしても時間にしても良い環境を与えられていると思っているので、そこは少し心配ですね。
──将来有望な18歳には無限の可能性があります。井手口先生としては河村選手にどう成長してほしいですか?
井手口 ここ何日か私の隣でサブ的に声掛けをやってくれていますが、コーチとしての才覚もあるかもしれませんね。選手として日本代表になって、その経験を持ってプロのコーチか大学のコーチをやって、最終的には日本代表のヘッドコーチをやり、河村ジャパンがオリンピックで金メダルを取る。私はそれを天国から見れたらいいですね(笑)。個人的には福岡第一のコーチをやってほしいですが、そんな小さなことでは困りますね。
河村 感謝してもしきれないので、そこを簡単に言葉にするのはすごく難しいです。僕は中学校の頃に全国の強豪校のどこからも声が掛かりませんでした。身長が低い僕を熱心に誘ってくださったのは井手口先生だけです。こうやって高校で結果が残せたのも日本代表に入ったのも、福岡第一高校で井手口先生の下で3年間バスケットができたからだと思っています。ミニバス、中学校、高校とやって、これから大学、プロといろんな指導者の方とかかわっていくと思いますが、自分の中で井手口先生が一番の指導者であることは絶対変わりません。だから恩返ししたいという気持ちがあるし、井手口先生に良いところを見せたいので、井手口先生が僕にこうなってほしいと願ってくれるなら、そこに向かって頑張りたいです。