大胆なスタイル変更は『サクレ引退』がきっかけ
令和最初の天皇杯チャンピオンに輝いたのはサンロッカーズ渋谷だった。過去2シーズン、勝率5割以下でチャンピオンシップ出場を逃すなどチームは低迷していたが、昨年夏にチームの半数以上を入れ替える大改革を実行。そして、積極的な選手交代による激しいプレッシャーディフェンスを仕掛けるアップテンポなスタイルを採用したことが功を奏し、開幕から9勝2敗とスタートダッシュに成功。激戦の東地区にあって、ここまでリーグ上位の成績をキープしている。そのパフォーマンスを天皇杯にも持ち込み、頂点に立った。
このチーム改革を主導したのは指揮官の伊佐勉だ。アシスタントコーチ、ヘッドコーチとして琉球ゴールデンキングスにチーム創設の2007年から在籍した伊佐だが、Bリーグ初年度の終了後に琉球を離れる。そして2017-18シーズンにアシスタントコーチとしてSR渋谷に加入すると、翌シーズン途中にヘッドコーチへと昇格し、今シーズンも続投となった。
SR渋谷の復活の原動力となった現在のスタイルは、実は伊佐が当初から計画していたものではない。7月末に発表されたロバート・サクレの引退が契機だったと伊佐は明かす。
「サクレが引退したことで、バスケットボールを変えようと思ったのがきっかけです。サクレがいたら、あれだけのタレントなので彼を中心にします。そうなったら彼の持ち味を生かす意味で、今のスタイルとは違っていたと思います。今のスタイルを実行できる選手に来てもらい、メンバーが揃いました。夏からこのバスケットを注入して今も積み上げています」
サクレは長らくSR渋谷の中心選手であり、チームの顔だった。引退を決断したのはオフ期間中とはいえ、彼を中心に据える構想だったのだから、編成をやり直すのは大きな出遅れとなる。それでもまさに『ピンチはチャンス』で、伊佐はアップテンポなスタイルの導入を決断。フロントが指揮官の期待に応えるメンバー編成に成功したことで、躍進へと繋がった。
ハイスコアゲームは「本当に守備の賜物」
大きくメンバーを入れ替えたが、日本人選手では過去2シーズンで主力としてチャンピオンシップを経験していたのは石井講祐のみ。渡辺竜之佑は琉球、新潟で経験しているが、プレータイムはわずかと今のメンバーは勝利の実績に乏しい。
ただ、伊佐は、過去の実績を気にしなかった。「今のメンバーで勝っていた選手は石井だけで、残りは負け越してチャンピオンシップにも出ていない。でもハードワークができるという一番大事なところを持っている選手たちで、やるべきことを遂行できれば必ずモノになる。そこにはある程度の自信がありました」
現在のSR渋谷は、日本人選手についてはプレータイムを厳格にシェアしており、エースのベンドラメ礼生であっても20分を少し上回る程度しか出場しない。貴重な得点源は1試合30分近く使いたくなるものであり、外野からそういう声が届いてもおかしくない。しかし、伊佐は、あくまでプレータイムのシェアにこだわる。それはディフェンスの強度を保つことがチームの生命線であると考えているからだ。
「今のディフェンスをして、30分プレーできたらサボっていると思います。そういった意味では、礼生でも20分以下に抑えたいぐらいです。全面的な信頼があるので平均22分ですが、このスタイルでは25分以上はプレーできません」
SR渋谷はここまで平均得点でB1のリーグトップだが、それも今の激しいプレッシャーディフェンスがあってこそと強調する。「練習でも9割はディフェンスです。オフェンスは全体の1割ちょっとの時間を割いて修正するくらい。やっぱりディフェンスから良いオフェンスに繋がることで、今のハイスコアゲームができるようになっている。本当に守備の賜物です」
攻撃におけるSR渋谷の一つの特徴は、ハーフコートオフェンスにおいても規律より選手の自主的な判断であり、流動性を重視していることだ。伊佐と言えば、現役時代は司令塔として、第16回選抜バスケットボール大会(1986年)で地元沖縄の興南高校を準優勝に導き、大会ベスト5にも選出された実績の持ち主だ。しかし、彼にはポイントガードがゲームメークのすべてを担うべきという考えはない。
「僕もポイントガードでしたが、感性でやっていたこともあって、もともと戦術でがんじがらめにはしたくありません。それに現代バスケにおいては、パスファーストでゲームメーク第一のポイントガードはあまり必要ない。それなら自分から仕掛ける攻撃タイプを作ればいい。やっぱりポイントガードも点を取れた方が相手は嫌なものです。例えば礼生からアグレッシブさをなくせば、彼でなくても良くなります。そこは夏からずっと話しています。ただ、なくせるターンオーバーはあるので、それは後半戦になって改善していかないと勝てなくなります」
自らが外した選手へ真っ先に「ちょっと涙腺が崩壊」
伊佐が推し進めてきた変革について触れてきたが、彼を語る上で欠かせないのはその人情味溢れる部分だ。『ムーさん』の愛称で親しまれ、モチベーターとしての手腕に優れているのは指揮官としての大きな武器だ。
情に厚い彼の人柄が出たのは、3点リードした残り0.8秒で得たフリースローの1本目を広瀬健太が決めて勝利が決まった直後だった。そこで彼がまず駆け寄ったのは、この試合でベンチ登録から外れたチャールズ・ジャクソンのところだ。伊佐はジャクソン、セバスチャン・サイズ、ライアン・ケリーと3人の外国籍選手を試合ごとに使い分け、均等に出場機会を与えていた。しかし、この決勝の舞台ではサイズとケリーを2日連続で起用。これまでとは戦略を変えてきた。
「ああいう同じような能力の選手を3人連れてきてローテーションするアイデアは自分が決めました。トーナメントとリーグ戦は違うので、選択についての葛藤もなかったです。言いにくいところはありましたけど、そういうストレスは承知の上でした」
外国籍選手の起用は迷いなく決断したと語るが、試合中にベンチ脇にいる選手にも目を配るのはムーさんならでは。「今日はCJ(ジャクソン)を出せなかったですが、それでも彼はチームの一員としてゲームに入って応援をずっとしてくれていました。だから、まずは彼のところに握手をしに行こうとして顔を見た瞬間に、ちょっと涙腺が崩壊してしまいました」
こうして日本一のチームを率いる指揮官となった伊佐だが、興南高校を卒業後、専修大学に進むも同大卒業後は地元の沖縄に戻る。そして仕事をしつつ、クラブチームでバスケットボールを続ける。2001年には全日本クラブ選手権で選手兼任監督として優勝するが、トップカテゴリーから距離を置いてバスケ人生を送っていた。
それが2007年、地元に琉球が誕生したことで安定した職業を捨ててプロバスケの世界に飛び込む。当時の彼は、すでに30代中盤の年齢であり、なおかつバスケ界も今とは比較にならない不安定な状況だった。それでも彼は、「友達からも『お前バカじゃないか』と言われました」という決断を下す。
周囲の反対を押し切って一歩を踏み出したことで、「あそこで琉球に入らなかったら普通にサラリーマンをして、趣味のバスケットをシニアでもやっている感じだったと思います。それが今は、渋谷と東京のど真ん中のトップリーグのチームでヘッドコーチをさせてもらっているのは本当に恵まれていると思います」と、かつて自身が想像すらしていなかった舞台に立つに至った。
クラブチームの指揮官から始まったコーチキャリアに、約20年かけて日本バスケットボール最高峰の舞台、天皇杯の優勝監督という称号が付いた。伊佐の歩みは、プロコーチを目指すすべての人に勇気を与えるものだ。そして、「やりたいバスケットには近づいていると思いますが、もちろんまだまだです」と、さらなる成長の余地を強調する指揮官は、SR渋谷をさらに上のレベルへと進化させていくはずだ。
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