取材=古後登志夫 写真=古後登志夫、佐々木啓次、Bリーグ

マイケル・ジョーダンにあこがれてバスケットボールを始め、中学を出るとアメリカに渡った少年は、『J-walk』として帰国。そして開幕したばかりのbjリーグを牽引する存在となった。その仲西淳は先日、12年のプロキャリアに幕を下ろした。

bjリーグでは優勝経験がなく、現役最後のシーズンに始まったBリーグでは1部でプレーする機会を得られないままの現役引退。それでも、『J-walk』を長年見てきたファンは、そのキャリアが魅力に満ちたものであったことを知っている。長い現役生活を終え、通訳兼スキルコーチとしてのキャリアを踏み出したばかりの彼に、その半生を振り返ってもらった。

自分に問いかけた時に「ここが潮時かな」と

──まずは現役引退の決断について教えてください。以前から引退は頭にあったのですか?

結構前からです。ここ2年ぐらい少しずつ、頭の隅でセカンドキャリアを意識するようになって。身体は問題なくプレーできる状態でしたが、1年前に東京サンレーヴスに加入して、いろいろ旅をして最終的に自分がキャリアをスタートさせた東京に戻って来た時に、「これが自分の集大成なのかな」とは感じました。

昨シーズンは山形ワイヴァンズで終えることになりましたが、群馬(クレインサンダーズ)との最終戦に出ている時、ふと「これが現役最後の試合になるかもな」という思いが頭をよぎったんです。シーズンが終わった後は何も考えず、自分の素直な気持ちに任せようと思って、福岡でオフを過ごしていました。バスケはやりたかったから、大会に出たりはしていたし、実際に結構ハードなトレーニングもしていて、このまま次のシーズンに良い状態で入ることができるとも感じていました。

チームとの交渉はエージェントを通してやっていましたが、実際のところ決まらなくて。プロバスケットボール選手としてまたシーズンを通してやるモチベーションが自分にあるのかと問いかけた時に、「ここが潮時かな」と思いました。そうなったということは、引退する時かなと。

──引退という現実に対して、気持ちはもう割り切っていますか?

昨日の今日ですから、それは……。自分が今までやってきたことを目の前で選手たちがやっていて、自分はそちら側にいたわけです。心のどこかではバスケをやりたいと思っているのかもしれない。でも、それは時間が経つにつれて切り替わっていくはずです。

──Bリーグができて日本のバスケ界が盛り上がってきたタイミングで引退することになりました。「Bリーグでもっとやりたかった」、「B1でやりたかった」という思いは?

「やるんだったらやっぱりB1でやりたい」という気持ちは正直ありました。そこでやりたくなかったと言えば嘘になりますよね。昨シーズンはB3の東京サンレーヴスからB2の山形に移籍して、「このままB1に上がったら、俺は3つのカテゴリーを全部経験している初めての選手になれる」なんて考えていました(笑)。ただ、バスケットに対しては悔いはないし、やれるだけのことは全部やったと思います。

もう一つ思うのは家族のことかな。家族が一番大事だし、バスケットボール選手である前に一家の主人ですから。家族を食わしていかないといけないという義務や責任があります。そこで葛藤した部分はあって、バスケを続けたいという感情はあっても、男として家族を食わしていかないといけないから。

難しいこともありましたが、それも楽しんでいた

──仲西選手のこれまでのバスケ人生を振り返る上で転機となったのは?

アメリカ行きでしょうね。NBAやマイケル・ジョーダンをきっかけにバスケットを始めたから、バスケの原点はやはりアメリカなんです。小さな頃からちょっと変わってて、中学1年ぐらいから何の根拠もなく「アメリカに行く」と言っていました。でも、口にしたから有言実行できたんだと思います。一番大きかったのは中3の夏休み、マイケル・ジョーダンキャンプに参加して、そこで初めてアメリカのバスケに触れたことですね。

アメリカってすごくリップサービスが多いんですが、コーチたちが僕を見て「すごいジャパニーズキッズがいるぜ」みたいに言ってくるんです。ドリブルは結構やっていたので、面白いと思われたんでしょうね。でも日本っぽくパスばかりしていたら「なんでお前は行かないんだ?」と言われたのでガンガン行ってみたら結構その場が盛り上がって、そのキャンプでも話題になって。それで周囲から「お前はアメリカでプレーしたほうがいい」と言われたのを真に受けたんです。完全に舞い上がって、日本に戻るとすぐに「俺はアメリカに行く!」って(笑)。

──バスケット自体のレベルとか、言葉や文化の壁とか、そういうものに直面しましたか?

常にありましたよ。ジョーダンキャンプでも、年下の選手が滅法フィジカルが強いし、跳ぶし速いし。「こんなの日本じゃ体験したことないよ!」って思いました。でもアメリカには、さらに上手い選手がいるわけです。その壁を超えるには、やはり練習しかありません。それだけバスケットが好きだったので。

アメリカに着いた時も、ホストファミリーの家に荷物を置いて、そのままボールを持って公園に行って練習しました。朝6時に起きて、学校が始まる前に走り込んだり練習したり。そういうのは全然苦に思わなかったし、アメリカでそれなりにバスケができている、という喜びの中でやっていましたから。難しいこともありましたが、それを楽しんでいたと思います。

──サンタモニカ短大を経てbjリーグへ。これは河内敏光さんとの出会いが大きかった?

15歳か16歳の時、ジョーダンキャンプをたまたま見に来て出会ったのが最初です。そこで「面白い日本人がいるよ」と誰かから聞きつけたようで、河内さんが見に来てくれました。そこから付き合いが始まったんです。ただ、bjリーグが始まると聞いた時には迷いましたね。アメリカでバスケを続けるという選択肢もあったので。でも、日本でプロリーグができるということは、日本人のバスケ選手としたらやっぱり魅力的なんです。その歴史的瞬間に選手としてかかわりたいと思いました。ドラフトで指名された時にはテンションが上がりましたね。「NBAドラフトみたいじゃん!」と勝手に舞い上がって(笑)。

──アメリカに行っていなかったら、キャリアはどんなものになっていたでしょうね?

バスケを続けていなかったんじゃないかな。やっぱりあの年齢でアメリカに行って得られた刺激はすごかったんです。アメリカに行かずバスケを続けていても、それは刺激のない、つまらないものになってしまって、ここまで続けられることもなかったと思います。

とにかく気持ちで表現する、そういう選手でした

──そこからbjリーグで11シーズン活躍しましたが、優勝を経験できませんでした。

そこが唯一悔いに残ると言うか、やっぱり優勝したかったですね。優勝して紙吹雪を浴びたかったと今でも思います。ただ、自分個人としてはやりきりました。

──自分のプレースタイルのどこがお気に入りでしたか?

やっぱりアタックするプレーだと思います。とにかく気持ちで表現する、そういう選手でした。

──英語が話せるので外国籍選手とのコミュニケーションができて、リーダーとしてチームの気持ちを高めていくイメージがあります。

リーダーとして何が必要なのか、それは常に自分に問いかけていました。東京アパッチでキャプテンを任せてもらいましたが、その時は2年目でまだ若くて、キャプテンの意味すらも分かっていませんでした。

NBAを見ていて「リーダーってどんな存在なのかな」と考えながら、声を掛けてチームを盛り上げたり。それが自分の仕事だと思ったし、キャプテンをやることが嫌いではなかったです。外国籍選手と話す中では、特にリン・ワシントンの姿勢から学ぶものがありました。キャリアを重ねて責任感や経験を積んでいくうちに自分のキャプテン像が自然と出来上がったと思います。

やっぱり、7割か8割は「キツい」とか「苦しい」なんですよ。勝ってうれしいことよりも、負けてキツかった思い出のほうが多いです。ただ、2割か3割でしか訪れない喜びをチームメートと分かち合うとか、そういう瞬間があるから頑張ることができました。キャリアを振り返ると、心の中で「キツい」と思っていても、それでも続けられたことは誇りに思えます。

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