「バスケットがただの作業になっていた」からの意識改革
開幕節の川崎ブレイブサンダース戦で劇的なブザービーターを決め、バスケット新世代の幕開けを華やかに彩った田渡修人。開幕時は控え起用だったが現在はスタメンに定着し、12月15日現在、B1の3ポイントシュート成功率ランキングを独走している。
筑波大学時代にはポイントガードとしてプレー。アシスト王に3度輝き、学生日本代表にも選出された。しかし大学を卒業してからの4年間、田渡の名が表舞台に上がることは一度もなかった。栃木ブレックスで3年、浜松・東三河で1年。特に三遠の前身にあたる浜松・東三河での昨シーズンを「栃木の3年間よりももったいない1年間だった」と振り返る。
3年間の控え生活は田渡を臆病にした。
「自分で自分を追いつめて、プレーの幅を狭めていたような気がします。特にダメだったなと思うのが、『余計なことをしたら試合に出られないんじゃないか』と思ってしまっていたこと。積極的にやるのでなく、ただヘッドコーチから求められたことを遂行しようとしかしていなかったです」
指揮官からはっきりと明言されたわけではないにもかかわらず、『控えのシューター』が自分の役割だと決めつけた。「空いたらただ打つだけ。バスケットがただの作業になっていました」と苦笑いしながら振り返る。
今シーズン、指揮官の変更やBリーグ開幕という新しいきっかけに乗じて、田渡はようやく変わることができた。
「B1でプレーさせてもらえると決まった時から、今年は最初から縮こまらないで、チームのルールの中で自分のプレーを積極的に表現しようと意識していました。それがうまくコーチの考えとはまって、徐々に練習で信頼を勝ち取って、スタートで出してもらえるようになりました」
大学時代に「生きる道」と決めた『ポイントガードとしての自分』へのこだわりも、柔軟になった。
「今のチームで僕の身長やシュート力を生かすのは、2番(シューティングガード)をやりながら1番(ポイントガード)の選手とコントロールすることなんじゃないかという考え方に変わりました。(正ポイントガードの鈴木)達也がガードをやっている時は、自分は2番で思いっきりやる。達也が厳しい時は僕がガードをやる。達也がスピードで行くなら僕は(セットプレーの指示を)コールしてじっくり攻める。そういう強弱を付けるのも面白いです。これまではずっと1番にこだわっていましたけど、完全に吹っ切れました」
これまでは出場機会が減ることを恐れ、2番で起用されるなら2番のプレーに徹することしか考えられなかった。しかし、今は高いシュート力を持ちながらコントロールもできる自分を目一杯表現できている。交流戦を終えると、同地区とのカーディングは3巡目を迎える。得点への対策が厳しくなってくるこれからこそ、田渡の持つユーティリティーがよりいっそう強みを帯びるだろう。
『ズレを作って勝負する』プレースタイルの秘密
小学生の頃は向かうところ敵なしだった。しかし強豪の京北中に進むと全く試合に出られず、体重だけはグングンと増えた。「本気でバスケットボールをやめたいと思ったのはこの時だけです」と田渡は振り返るが、現在の田渡のプレースタイルが象られたのは、この、168センチ76キロの『重量級ポイントガード時代』だった。
「とにかくスピードがないんで、相手を一瞬で抜くとかでなく、ボールをもらう前にズレを作っておいて、もらった瞬間にはすでに抜く。こういうプレーはこの時に自然と身に着いたんだと思います。高校に入ると、ますます『平凡だな』って思うようになったので、そういうところで勝負しないと絶対使ってもらえないし、上(のレベル)にも行けないと思うようになっていましたね」
田渡のプレーには力みがない。先回りをしておけば、余計な力を使う必要がないからだ。三兄弟の次男。長男の敏信(埼玉)はずば抜けた身体能力を持ち、三男の凌(ドミニカン大カルフォニア校)は加えて技術も高い。「俺には何もない」という気づきの中で必死に考え、磨いた判断力が田渡を助け、高みに引っ張ってくれた。
アシストランキング1位をひた走る鈴木のパスは高い注目を集めているが、田渡のパスも特筆すべきものがある。「ボールに人が吸い寄せられるようなパス」と表現すればいいだろうか。味方が飛び込んでくるスペースにあらかじめ出す、柔らかくさりげないパス。高い状況判断能力がなければ出せないパスだ。
「『そこに出す?』とか『そんなところが見えてるの?』って言われるんですけど、自分では難しいパスを選択している感覚はないんです。自分の選択肢の中で一番簡単なパスです」と説明する田渡自身も、「シュートについて取り上げられるのも分かるんですけど、パスも見てほしいです」と強調する。
同期の辻直人や遠藤祐亮に「ようやく並べたかな」
「田渡は一回死にました」
そう冗談めかして笑うが、この言葉にどれだけ田渡が苦しい4年間を過ごし、今シーズンそこからどれだけ解放されたかが凝縮されているような気がする。
この4年間、ずっと卑屈になっていた。残り時間数分程度、敗戦処理のような形でコートに立ち、シュートが決まると送られる暖かい拍手がとにかく嫌だった。ファンに「良かったよ」と声を掛けられ、「1本決めただけで良かったって言われても……」と思わずにはいられなかった。それでも笑って応対する自分の情けなさにこそ、腹が立って仕方がなかった。
大学時代、同じレベルでしのぎを削っていた辻直人(川崎)は不動の日本代表となり、Bリーグ元年を『リーグの顔』として迎えた。栃木に同期入団し、ともに試合に出られない時期を過ごしていた遠藤祐亮もいつの間にかプレータイムを増やし、今はスタメンとして堂々とプレーしている。
「今まで同じレベルだと思っていた選手がこれだけ活躍して、かたやこっちは試合に出られないし、出てもうまくいかない。でも、5年目にしてようやく並べたかな」
田渡はここからのシーズンを『未知』と表現する。長いプロのシーズンを主力メンバーとして戦った経験がないからだ。
「今は良い状態が続いているけど、悪い時も来ると思います。その中でどうメンタルをコントロールするかとか、悪い時なりに自分の良さを出すにはどうしたらいいかということは、今から考えていますね。そんなことを考えるだけでも楽しい。今まで考えることすらできなかったですから」
チーム名の「フェニックス」は、言わずもがな「不死鳥」である。何度死んでも何度もよみがえる――。田渡はこの不思議な鳥の力に助けられ、息を吹き返した。ここからを切り開くのは他でもない、自分自身だ。