シーホース三河を率いる鈴木貴美一ヘッドコーチは、これで就任23年目を迎えた。大学のヘッドコーチだった鈴木を迎え入れたアイシンは、当時は2部でも下位のチーム。それでもヘッドコーチとGMを兼任する鈴木の下でアイシンは常勝チームへと変貌し、そこから長く強豪であり続けている。前編では鈴木ヘッドコーチにアイシンの監督になったきっかけ、強いチームをどうやって作り上げたかを聞いた。
2部で無名だったアイシンが「日本一になりたい」
──アイシン精機のバスケットボール部にやって来たのが1995年のことです。当時は強豪チームではなかったアイシンをどうやって変えていったか、という話をメインにお聞きしたいのですが、その前に指導者を志した経緯を教えてください。
僕は中学まで野球をやっていて、バスケットを本格的に始めたのは高校からなんです。当時から日本一だった能代工業でやっていたんですが、とにかく先生が厳しかった。企業チームに入った時に、指導者の不平不満を言う人がたくさんいたので、「絶対コーチにはならない」と思っていました。バスケに取り組む姿勢がそれほど良い選手だったわけでもなく、自分が指導者向きだとも思いませんでした。
転機は26歳の時に骨の病気でひざを手術したことです。もともとジャンプ力があって、それでスコアを取っていた選手でしたが、手術したらあまり跳べなくなってしまって。そこで高校の恩師から「大学で指導してみないか」と声をかけてもらったんです。「復帰してまた日本代表に戻りたいし、指導者には向いていない」とお断りしたのですが、そこで「もう27歳だ。それで手術をして、選手としてこれからバンバン伸びていくとは思えないよ」と。そして「お前の話し方には説得力があるから、指導者向きだ」とも言われたんです。お世辞でしょうけど、自分では「そうなのかな?」と思って。
それで大学のコーチを始めたら、すぐその年にチームは東北1位になり、天皇杯も7年のうち5回出場して、トップリーグに15人の選手を送り出すことができました。それで学生選抜のU-22のコーチも任されるようになって、自信がついたんです。
──それまでアイシン精機とは接点がないようですが、どういうきっかけがあったのですか。
当時のバスケット部の部長から「ウチに来てくれないか」という話をいただいたんです。当時は有名な実業団チームが他にあって、アイシン精機は全く名の知られていない2部の下位チームで、僕自身も何部に所属しているのかも曖昧なぐらいでした。そのアイシンの部長が「日本一になりたい。そのためにプロコーチとして来てほしい」と言うんです。
その部長は「5年以内に日本一にしてくれ」と言ったんですが、「そんなに甘い世界じゃないのに」と思いました。それと同時に「すごいな」と感心したんです。それで引き受けることに決めました。当初は1995年の4月に就任するはずだったのですが、大学のチームで天皇杯を終えるとすぐに刈谷に来ました。1年も無駄にしたくないということで、「シーズン途中からチームを見て、3カ月で昇格させてくれ」と。それで1月5日ぐらいに合流したのですが、最初は僕の住むところも決まっていないし、練習もみんな仕事が忙しくて来ない。そんな状態からのスタートでした。結局、そこから丸6年で初優勝しています。
「優勝を目指す」と言っても信じてもらえない
──アイシン黄金期の到来はまだその先だと思うのですが、当時はどんな苦労がありましたか。
まずは環境ですね。今シーホース三河が使っているこの体育館を当時から練習場として使っていますが、最初は冷暖房がなくて、夏はサウナ状態です。練習場も今みたいに1面ではなく半面しか使えない。環境については「鶏が先か、卵が先か」とはっきり言われました。つまり、勝って環境を変えていったんです。一つ優勝したら、今年はストーブ。次はテーピング代、その次はユニフォームを新しくしよう……。そうやって会社が「勝ってるな、頑張ってるな」と応援してくれて、一つずつ環境を良くしていってくれました。
チームを強くする苦労で言えば、最初は選手が来てくれませんでした。そろそろプロの選手も出てきた時代で、コーチにもプロがたくさんいる状況です。選手は勝てるチームで稼ぎたいので、僕が「優勝を目指す」と言っても信じてもらえないわけです。代表候補の選手を取ろうと大学の先生に挨拶に行っても、「あなたのことは知っているけど、アイシンというチームのことは全く知らないので選手が不安がっている」と断られました。
ちょうど時代的には、現在のBリーグで活躍しているベテランが大学を卒業する頃で、たくさんの選手に声をかけたのですが、ことごとく断られました。そうなると、手元にいるのはバスケットを利用してアイシンに就職しようという選手で、「優勝する」とか「1部に上がる」というモチベーションがないんです。そんな選手たちに対して、どうやって戦う意欲を持たせるか、試合に勝って良い思いをするんだという気持ちを持たせるのには苦労しましたね。
──そんな状況の一つ先には、スター選手が揃う黄金期があります。チームはどうやって変わっていったのでしょうか。
1部に上がっても数年は低迷しました。ビリにはならなかったけど下位です。経験がない、外国人選手も安いという状況では上出来だったと思います。そんな中でも上位チームと1点差のゲームをやったり、いすゞ以外にはほとんど良い勝負をしました。そうすると「アイシンは良いチームだね」という印象になってきます。
転機はいろんなチームをクビになった選手が「みんなであのチームに行って勝とうよ」と集まってきてくれたことです。まだ選手がいない状況で、最初にファイナル4に進み3位になった時は「これでトップチームの仲間入りだ」と思ってうれしかったですね。そこまでは外国人選手も経験のない安い選手で、もちろん帰化選手もいない状況でしたが、そこから後藤正規くん、外山英明くん、佐藤信長くんが来てくれた。初優勝した時はまだ佐古賢一くんも加わっていませんでしたから。
「こうやったら勝てるんだ」と身体で覚えていく
──有望な新人が来てくれない状況で、ベテランの力を活用して優勝したわけですね。
ウチに来てくれたのは年齢的にピークを過ぎた選手、クセのある選手でしたが、そんな彼らがチームプレーをしっかりやってくれた。それまでのチームのやり方が身体に染み付いているベテランを束ねて一つのバスケットをやるのは大変です。
最初はやっぱりうまく行きません。僕も黙って知らんぷりしていると、みんな自分勝手に1on1をやって50点しか取れないような試合をやるんです。決まればいいけど、決まらなかったらもうダメという試合です。そういう試合をやったかと思えば、チームプレーをビシッとやって圧勝したり。そういう状況を踏まえて「今日は勝手にやるわけ? どうぞどうぞ、自分たちでやってみな」と。それで負けたら次の練習で「じゃあどうするか」となっていく。
そこで出した答えを選手たちが遂行すれば勝てるわけです。そういうのを繰り返していくと、「こうやったら勝てるんだ」と選手たちが身体で感じながら覚えていく。僕の場合はもともとが弱いチームだから、怖いものはないわけです。「負けてもともとだ」ぐらいに思っていました。だからじっくり取り組みました。そして、いろんなチームでエースだった選手が「このチームでやるぞ」と変わってくれました。
そうやって何年か強い時期があるうちに、竹内公輔くんとか古川孝敏くんとか、今の選手で言えば比江島慎くんとか、そういう選手が新人で来てくれるようになりました。
──これで就任23年目、特徴はやはり在任期間の長さです。同じ企業チーム母体でも、他は数年単位で監督を変えていますよね。「親会社と現場のトップ」という関係としては、よほど独特なんじゃないかと思うのですが。
僕はチームを勝たせるために真面目にやってきましたが、それと同時に組織作りも頑張ってやってきたつもりです。選手が育つだけでなく、アイシンのスタッフも会社に戻って課長になったり海外で活躍したり、みんな頑張ってくれています。これまでバスケット部を担当してくださった顧問の方々が本当に僕に良くしてくださって、ただ勝つだけではない様々な貢献を認めてくれました。だからこれだけ勝つことができたと感謝の気持ちを持っています。今、こうしてシーホース三河になっても、一番のスポンサーであるアイシングループの人たちの愛情は、僕自身がすごく感じています。それは本当に助かっています。
大きな会社なので、スポーツに興味のない人もいます。それでも、「会社の士気を高めてくれた」と言われたことが何度もあります。まあお世辞かもしれないですけど(笑)、「アイシンの文化を変えてくれた」とまで言ってくれる人もいます。自動車部品メーカーではトップですが、その名前を全国に知らしめ、カルチャーを変えてくれたと。そう思ってくれる人がいるのは本当にありがたいし、人との出会いは運が良いと思います。
『23年目』の鈴木貴美一(後編)強豪であり続けるために、時代に応じた変革を
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