文=松原貴実 写真=野口岳彦
PROFILE 田臥勇太(たぶせ ゆうた)
1980年10月5日生まれ、神奈川県出身。突出したバスケットセンスとテクニックで高校時代から注目を集める。その後もたゆまぬ努力で夢を追い、2009年にサンズと契約。日本初のNBA選手として開幕戦ロスター入りを果たした。広い視野と冷静なゲームコントロールは35歳の現在も日本No.1の呼び声が高い。

田臥がいることでチームが落ち着き、大きな波がなくなる

『田臥勇太』で検索すれば、その輝かしい経歴が長い列を作って現れる。能代工高校時代3年連続三冠(インターハイ、国体、ウインターカップ)達成、アジアジュニア選手権大会3位、史上2人目の高校生選手として日本代表候補入り、日本人初の世界ジュニア選抜メンバーとして『ナイキ・フープサミット』に出場、ブリガムヤング大ハワイ校に進学、帰国後トヨタ自動車アルバルクに入団、スーパーリーグで新人王獲得──。

その中でもひときわ目を引くのは、やはり『2004年 NBAフェニックス・サンズと契約』という一文だろう。日本人初のNBA選手として、田臥は日本で最も有名なバスケットボール選手となった。そして12年を経た今も、それは変わらない。

だが、一方で日本代表に関する記述は少ない。その理由はNBAに挑戦するため日本を離れていた期間が長かったことにあるが、加えて2011年以降は故障による離脱を余儀なくされた。

2011年といえばロンドン五輪の出場権争いを兼ねたアジア選手権が開催された年。前年のアジア競技大会で日本を16年ぶりのベスト4に牽引した田臥に周囲の期待は高まったが、それに待ったをかけたのは「足底筋膜炎」という病だった。かかとを強打し強い痛みを覚えたのは2009年5月のことだ。

「半年間バスケットを休んで治療に専念したことで一時は完治したと思ったんですが、2011年に入ってから今度は両足に痛みが出るようになってしまったんです」(田臥)。症状は軽くなったかと思えばまた悪化する。この繰り返しに長期戦を覚悟した田臥は自分の身体を一から見直し、それに沿った体幹トレーニングとリハビリに取り組むことを決心した。

身体のメンテナンスにつながる姿勢、食事、睡眠、生活習慣、すべてを細かにチェックして地道な努力を重ねる日々が続いた。その成果がコートで花開いたのは2013-14シーズン。リンク栃木ブレックスの司令塔として平均32.4分のコートに立った田臥は日本人選手2位となる平均15.9得点を記録するとともに、アシストとスティール両部門で堂々1位に輝いた。

日本代表の長谷川健志ヘッドコーチは言う。「完全復活と言える素晴らしいパフォーマンスでした。技術はもとより彼がいることでチームが落ち着き、大きな波がなくなるんです。若手選手への影響力も多大で、日本代表チームに必要な存在であることを改めて実感しました」

かくして田臥は翌2015年6月、新たなスタートを切った日本代表チームに招集される。奇しくも時はリオ五輪予選を兼ねたアジア選手権前。4年前に叶わなかった舞台に上るチャンスが巡って来たのだ。

当日の会見では記者団の質問に終始にこやかに答えていた田臥だが、「4年ぶりに袖を通したJAPNのユニフォームの感想は?」の質問が飛んだ時、その表情が一瞬スッと引き締まった。無意識にその手がユニフォームに触れる。「これをまた身に着けられたことに感謝しています。そして、今、身に着けた重みを感じています」――満を持して帰ってきた場所。その覚悟が静かに伝わる一言だった。

やっかいなケガを乗り越えて代表に戻って来た田臥は、そのユニフォームの重みを感じながらプレーしている。

勝負どころでどのプレーを選択するか判断する力はすごい

田臥の魅力とはなんだろうと改めて考えた時、必ず浮かんでくる光景がある。それは何年も前の代表合宿でのこと。当時候補選手の一人であった折茂武彦(レバンガ北海道)が田臥のパスを受け、気持ち良さそうにシュートを放っている姿だ。

「ここで勇太のパスを受けるのは本当に楽しい。上でもなく、下でもなく、自分が欲しい位置にドンピシャのパスが来るんです。そのタイミングもまさにドンピシャ!」――日本屈指のシューターとして長きに渡って活躍してきた折茂は田臥のパスを笑顔でそう評した。

この他にも「スクリーナーを立たせて自分のディフェンスを外すテクニックは日本一」とか「フルスピードで突っ込んでいっても直前にディフェンスをかわす技が秀逸」とか、田臥の秀でたプレーを口にする者は少なくないが、昨シーズン、千葉ジェッツの選手としてリンク栃木と戦った岡田優介は、その田臥を「栃木の心臓」と表現した。「チームを動かし続ける心臓ですね。中でも40分の中でどこが勝負どころなのかを見極める力、その勝負どころでどのプレーを選択するか判断する力は本当にすごいと思います」

また、東芝ブレイブサンダース神奈川の篠山竜青は同じポイントガードとして「田臥さんほどわくわくするプレーヤーはいない」と言う。「マッチアップしていても全く予想がつかない真逆を突いてくることがある。えっ、そうくるか! みたいな。そのたびにこの人はどれだけひきだしを持っているのかと驚きます」

35歳になった今、スピードで田臥を上回る選手はいる。身体能力も伸び盛りの若手にはかなわない。しかし、常に広いフロアビジョンを持ち多彩なオフェンスを生み出す能力、流れを読み細部にわたりゲームをコントロールする能力はいまだトップポジションにいる。そう思うと、より説得力を持ってよみがえるのは先述した長谷川ヘッドコーチの言葉だ。「彼がいることでチームが落ち着き、大きな波がなくなるんです」

周囲からリスペクトされながらも、田臥はあくまで一選手として強いチームを作ることにこだわり続けている。

歳のことなんか考えてる暇がないぐらい必死なんです(笑)

もちろん、田臥が『経験』だけを武器に戦っているわけではない。昨年、代表チームの公開練習を見たとき彼に感じたのは、ボールに食らい付いていくこれまで以上の『熱さ』だった。後に「あれほど勝ちたいと思ったことはなかった」と振り返ったアジア選手権大会でも際立ったのは田臥の『熱』だ。

初戦のイランに48-86と大敗し、いきなり黄信号が点滅した日本の中で「まずはルーズボール、リバウンドを泥臭く頑張ること。決して手を抜かず飛び込む。そうした小さな積み重ねがゲームの流れを変えていくのだと思います」と語り、それを率先して実行した。劣勢の場面でも貪欲にボールを追うその執念は次第にチーム全体に伝染していく。一戦ごとにたくましくなっていった印象がある日本チームの真ん中には田臥が放つ求心力があった。

近付いたOQT(世界最終予選)、昨年のヨーロッパ遠征で練習マッチをしたチェコとは本番でも対戦することになるが、それについて「チェコはどのポジションにもサイズがあって身体の幅もある。スクリーンのかけ方もどっしりしている感じです。シュート力もあるのですが、アメリカのように一人ひとりがものすごく高い個人能力を持っているというより、全員で動いてスペースを作って攻めてくるという印象を受けました。日本が勝つためには当然その上をいく機動力が必要になります。そこを徹底して連携を作っていけば、勝てるチャンスはあります」と、きっぱり答えた。

そのために重要なのはコミュニケーション。「それぞれが思ったこと、感じたことをみんなでシェアしていくことが大切です。全員が今より良いものを作ろうという共通の思いを持つことですね」

NBAの夢を追いかけあきらめなかった男、出口が見えない足の痛みと戦いながら弱音を吐かなかった男──。そんな田臥の言葉に耳を傾けない後輩たちはいない。

「いえいえ、コートに立ったら先輩も後輩もないですよ。互いに刺激し合って良いチームを作っていくだけ。自分の年齢ですか?コートの中では忘れています。歳のことなんか考えてる暇がないぐらい、いつも必死なんです(笑)」

OQTを勝ち抜き、オリンピックのチケットを勝ち取るのはとてつもなく困難なことだ。だが、田臥はその夢をあきらめてはいない。それがどれほど遙かに見えようと、田臥にとって『夢は叶えるためにある』のだから。

1999年3月、『ナイキ・フープサミット』に参加した当時18歳の田臥。そして今も彼は夢に向かって突き進んでいる。