安藤香織

大阪薫英女学院は、インターハイは24年連続の51回出場、ウインターカップは32回目出場を誇る関西の名門校だ。それでも、チームを率いる安藤香織監督は公立高校の出身。自身が高校生だった頃、そして公立校を率いる指導者として「打倒、薫英」を掲げた安藤が、名将である長渡俊一の後を継ぐことになった。公立校出身だからこそ、名門校の強みも弱みも分かる。「限りなく日本一を目指す」と「絶対に日本一にならないといけないわけじゃない気もします」、その2つを両立させる安藤に、指導者としての考え方、ウインターカップへの意気込みを聞いた。

「24年前に薫英を倒したのが私たちでした」

──まずは安藤監督の自己紹介からお願いします。

大阪の歌島中学校で1年の時にバスケットを始め、大塚高校、天理大と進みました。卒業後は兵庫県立芦屋南高校に2年間、そこで男女のバスケットのコーチをさせてもらい、次に同志社国際中学・高校で中学生を2年教えて、豊島高校の講師として大阪に戻りました。最初の2年はアシスタントで、専任として勤務して7年。薫英に来て今年が5年目になります。

もともとはバスケットではなく剣道をやっていました。中学も剣道部に入ったんですけど、バスケ部の先生に誘われて、断りきれずに夏休みにバスケ部に入ったのがスタートでした。親は剣道をやらせたかったので、辞めたことがショックだったようです。中学は全員がミニバス経験者なしの1年生チームだったのですが、有名な先生だったのでどんどん強くなって、最後は大阪府で優勝しました。

さあ高校をどうするかと考えた時に、警察官じゃなかったら教師になってほしい、という親の思いがあり、できたばかりの体育科の2期生として大塚高校に入りました。自分たちの代は全国大会に行きたいと目標を掲げて、いろんなことを変えて、当時ですから朝の5時には電車に乗り、帰るのは毎晩24時すぎという感じでバスケに打ち込みました。結果的にインターハイに行って、その時に倒したのが薫英です。薫英はインターハイに24年連続出場していますが、24年前に薫英を倒したのが私たちでした。

──公立高校でインターハイ出場はすごいですね。現役時代はどんなプレーヤーでしたか。

もともと剣道をやっていたので駆け引きは得意でした。剣道に比べたらバスケットは運動量が必要でしんどいし、身体も小さかったのですが、負けたくないから頭を使って駆け引きで勝負するタイプですね。薫英に勝った時は、高校生ながら奇跡が起きたと思いました。これだけ朝早くからやったら奇跡は起きるんだ、って。

──指導者としてのスタートは兵庫で、そこから京都に行き、豊島を経て薫英なんですね。

親の願いもあるし、教育実習も楽しかったので教師になりました。最初は大阪しか考えていなかったのですが、兵庫から依頼が来たので、これも縁かと決めました。1回戦負けのチームが県大会に行くぐらいまででしたけど、生徒がかわいくてすごく楽しくて、学校もすごく良いところで離れたくありませんでした。京都の中学では1回も勝ったことのないチームが京都の私学大会で3位になって、ここも楽しかったんですけど、縁があって大阪に戻ることになりました。

安藤香織

故・長渡俊一監督に言われた「お前はタヌキや」

──公立の豊島高校でウインターカップにも出場していますよね。

薫英がインターハイ2位でウインターカップの出場権を取ってくれた時に、近畿大会で奇跡的に2位まで行って、ウインターカップに出場できました。次の年にはインターハイにも出場したのですが、全国では勝てずに「次こそは」という思いで続けていました。ただ、公立高校なのでメンバーを集められるわけではありません。強いチームを作るぞ、というより選手たちが掲げた目標を達成するために一生懸命頑張っていたら、そういうチームになっていた感じです。

その頃に国体のスタッフとして、薫英の長渡俊一監督と一緒にやらせていただきました。長渡先生からは「よくそのチームで勝たすな、お前はタヌキや」と言われていました。人を化かして勝つ、すごい選手がいるわけではないのによくやっているという意味ですが、インターハイに行った年には「タヌキだけじゃなくキツネもついたな」と(笑)。「ウチの子らは推薦で取ってる。お前のとこはしっかり鍛えて勝たしとる」とも言っていただきました。その頃から「俺の後釜にどうや」と、国体でもいろんな戦い方を教えてもらうようになりました。

──そういう縁があって、長渡先生が亡くなられた後に薫英に来たわけですね。

でも、ずっと断っていたんです。豊島で続けたいと思っていました。私は高校時代から「公立で薫英を倒す」を目標にしていたし、桐蔭には勝ったことがあっても薫英に勝ったことがありませんでした。キャリアがない公立の子でも、頑張ればできるんだと体現したくて教師になったようなものなんです。

だけど、薫英がいないと大阪が弱くなる、伝統校の力はすごく大きいものだと感じていました。大阪の伝統校と言えばやはり薫英です。長渡先生は生前、「近畿のレベルが上がらないといけない。豊島が勝ってるようじゃダメなんだ」とも話していました。そういう意味で薫英がやらないといけないんだと。先生は亡くなる6日前に、お見舞いに来た私の中学の後輩に「豊島の安藤に頼んでくれ」と伝言を残されました。それだけギリギリの時に思いを託してもらって、感じるところはありました。

──それまではずっとノンキャリアの選手を育てることにモチベーションを持っていたのに、薫英に来たら超エリートと向き合うことになりました。最初は戸惑うこともあったのでは?

それが、実際に来てみたら「別に変わらないな」と思いました。同じ高校生で、目標に向かってやっていくことに変わりはないんです。ただ、違いもありました。例えば薫英の選手は言えばすぐできるようになりますが、忘れるのも早い。豊島では苦労して苦労して自分の武器を身に着けるので、できるようになったら絶対に忘れません。もともと何ももっていないので、やったらやっただけ上手くなります。一方で薫英の選手はもともと自分の武器がある。「勝つためにはこうしたほうがいいよ」と教えるとすぐ吸収しますが、結局自分のやり方に戻してしまう。結局はチームでプレーしようと言っても、個人の能力に走りがちみたいなところがあります。

安藤香織

「選手の良さを考えて、組み合わせてチーム力に」

──長渡先生から指導者が代わって、新たに取り入れたこと、変えたことはありますか?

私がここに来たもう一つの理由が、長渡先生の奥さんから「生徒指導をしてほしい。豊島でやっていたことをやってほしい」と言っていただいたことです。公立の豊島から見ると、薫英は強いけど、学校生活の面で緩い部分があると感じていました。だからこそ、全中優勝のようなキャリアを持った子が揃った薫英にも勝つチャンスはあると見ていたんです。

だから薫英でもそこから変えました。薫英に来た4月1日、私が選手たちに言ったのは、「挨拶をしっかりしなさい」、「学校のルールを守りなさい」、「人数が多いのでノートをしっかり書きなさい」の3つだけです。学校生活をちゃんとやって、バスケでも限りなく努力して、チームとしてできることはすべてやって、チームとして戦う。それを徹底するのが私のやり方でした。

──逆に、公立校にはなかった薫英の良さもあったのではありませんか?

勝つことへの執念、執着心ですね。言葉にすると簡単ですが、それは伝統校にしかないプライドだと思います。寮生活をして、身の回りのことは全部自分でやって、空いた時間でビデオを見て身体をケアして。すべてをバスケに懸けているのが公立との一番の違いです。学校生活も楽しむ時は楽しみますが、それでも15歳で親元を離れてバスケをやりに、日本一になるために来ています。薫英が日本一になったのはインターハイで1回だけですが、それでも私が来る前の子も今の子もずっと日本一を目指してきました。それは他には代えがたい伝統だと思います。

──学校生活を正しくやらせて、バスケでも限りなく努力する。そういう指導をする中で、特に意識していることはありますか?

私は選手の良いものを伸ばして勝負させたいと思っています。薫英では例年ディフェンスが良いと言ってもらえますが、ディフェンスはある程度チームの約束事で、できている時もできていない時もあります。オフェンスも去年は小さいチームでドライブ中心でしたが、今年は大きいセンターが2人いるので、その選手の一番良い武器を伸ばして、そこからどれだけの化学反応を生み出せるかと考えています。

これは長渡先生も同じでした。私が言うのもおこがましいですが、似ているのは私が研究してきたからかもしれません。この選手の強みは何なのか、それをいつも考えて、組み合わせようとしています。全国的にトップクラスの選手ではなくても、だけど何か秀でるものがあるはずです。それはスピードなのかパワーなのか、シュート力なのか心なのか。みんなそれぞれ違うけど、その選手の良さをチームの力にすることを考えて指導しています。

私がやっているのは、結局は自分がしてほしかった指導です。高校の時は練習は長いし足は痛いし、ただ疲れ果てて親への感謝の気持ちも沸いてきませんでした。高校の恩師はすごく情熱のある先生で本当に尊敬してるんですけど、もっと違う指導であればもっと楽しくなったんじゃないかって。豊島でメンタルトレーニングを勉強した時に、人間の脳は好きなものは入るけど嫌いなものは拒否すると知りました。しんどい練習だと、頑張って取り組んでも大事な時にしんどいが上回ります。でも「これをやれば勝てる」と思ってやれば頑張れるんですよ。そこから自分なりに工夫をするようになりました。