文=古後登志夫 構成=鈴木健一郎 写真=古後登志夫、野口岳彦

波多野和也はブラジル生まれの35歳。Bリーグ開幕戦、ド派手なアフロヘアーでまず注目を集め、日本人ビッグマンとして身体を張ったプレーでインパクトを残した。琉球ゴールデンキングスでプレーしたBリーグ初年度は58試合に出場。プレータイムが長かったわけではないが、コートに立てばきっちりと求められた仕事をこなし、チームに貢献した。

そしてこの夏、島根スサノオマジックへの移籍が決定。プロ13年目のシーズンを前にした波多野に、ジャーニーマンとしてのキャリアを語ってもらった。まずはキャリア以前に、バスケットボールを始めた話から。ブラジルで生まれ、9歳で日本にやって来た波多野に、バスケットボールとの出会いを聞いた。

顧問の先生の『罠』にかかってバスケの楽しさを知る

──ブラジルのベレンで生まれ育ったということですが、バスケを始めたのはブラジルで?

ブラジルでは特に何もやっていないんです。普通に一人で遊んでいるような子供でしたね。ブラジルと言えばサッカーで、学校でもサッカーの授業があるし、テレビをつければサッカーです。でも僕は「そんなの、毎日見たら嫌になるよ」と思っていました(笑)。ベレンは治安が良くなくて、外で遊ぶには大人が一緒でなければいけない。ブラジル人と日本人のハーフでしたが、向こうでは日本人に見られます。当時は「日本人はお金を持っている」というイメージがあって、誘拐されるといけないので外で遊ぶことがあまりなかったです。だから運動なんか全然しない子供でしたね。

日本に来ることになったのは、父の仕事の関係です。向こうでやっていた会社を辞めて、神奈川県にある会社に勤めることになったので、家族全員で日本に引っ越しました。藤沢市立秋葉台小学校に通うことになって、それで初めて日本語の勉強をしたんです。いすゞ自動車の工場が近くにあって、出稼ぎに来るブラジル人が多かったので、その小学校にはブラジル人の子供が多かったんです。僕を含めてブラジル人の子供たちは日本語の特別授業を受けていました。

ただ、子供だったので日本に溶け込む苦労は感じませんでした。何を言っているかは分からないけど、みんな僕と遊びたいからジェスチャーで誘ってくれて。それで友達ができて、家に遊びに行くようになるまでに時間はかかりませんでした。

──そんな流れで友達から誘われてバスケを始めたのですか?

いや、小学校6年の時に始めたのは柔道なんです。でも全然面白くなくて、3カ月ぐらいでやめました。試合には行かないのに、試合後のBBQだけ行ってました(笑)。バスケを始めたのは中学に入ってからです。特に理由があったわけじゃないんですけど、仮入部でいろんな部活を回った時に、バスケ部が一番楽しそうだったので。

特に背が高かったわけじゃないです。中学に入った時点では170cmあるかないか。僕の同期で185cmがいて、そいつが断トツでしたね。なぜかサイズのある選手が揃っていて、中学1年なのに170cm台が何人もいたんですよ。

ただ、最初の頃は1年生にボールなんか触らせてもらえなかったですね。体育館に行って筋トレして、「1年はお疲れ、もう帰っていいよ」って。それじゃ面白くないので部活に行かなくなったんですが、すごく怖い顧問に呼び出されて、「とりあえず試合に来い」と言われたんです。

仕方ないので行ってみたら試合に出してもらえました。コートを一往復しただけですぐに交代させられたんですけど。ボールに触れるどころか、一往復走っただけで何もしてない。でも、なぜだか分からないんですが、それがすごく楽しくて。そこからバスケを頑張ろうと思いました。まんまと先生の罠にかかりましたね(笑)。今でもなぜそう思ったのか分からないんですが、「やべえ、すげえ楽しい!」と思って。

「楽なイメージ」で選んだ専修大、入ったらキツかった

──高校は静岡学園に行きましたが、推薦で進学したんですよね?

推薦です。僕は中学を卒業する時に188cmあって、もう一人の友達が185cmで、フォワード陣が175cm、ガードでも170cmあって、すごくデカいチームだったんです。僕らの代で初めて男子が県大会に出て、そこでたまたま静岡学園の小松裕幸コーチがスカウトに来ていて、声をかけてもらったのがきっかけでした。

高校からはバスケ漬けの生活です。練習がキツかっただけでなくホームシックもあって、その時も3カ月ぐらいで「学校もやめて家に帰ります」って(笑)。でも、「キツいのは1年の今だけだ」と諭されて、もう少しだけ頑張ってみようかなと。すると本当に徐々に練習量も減って、楽になりました。それと同時に「バスケがうまくなっている」という実感も得られるようになってきて、そこからは楽しくて続けられましたね。

初めて全国の舞台に立ったのが高校2年の時、岩手でのインターハイでした。鵜澤潤さんのいる市立船橋に1回戦負け。その時は「テレビで見た選手がいるぞ」みたいな感じでした。3年の時は岐阜でのインターハイで、その時は仙台に負けました。

──そこから専修大に進みます。ここから波多野選手の名前は売れてきたイメージです。

当時、専修大のコーチをしていた中原雄さんが静学の練習を見てくれて、高校2年の時から指導していただいたんですが、「専修大に来い」とは一言も言ってくれなくて。高校卒業の間際には進学ではなく就職を考えていたぐらいです。実際、バスケ部がある会社に推薦がもらえる話もありました。行かなかったのは1つしかないその枠で、同期が行くことになったからです。

それで進学することにしたんですが、当時は情報もほとんどなくて。「日体大はキツいから専修大がいいだろう」なんて話をしていたら、キャプテンが「僕は専修大学に行きたい」と言い出したんです。そこで「知っているヤツがいるなら自分も行こうかな」と(笑)。

専修大は楽なイメージがあったんですが、入ってみたら全然そんなことなくはなかったですね。レベルが高いし、すごく基礎を重視する。試合だと派手なプレーもしますが、練習中はとにかく基本重視です。レベルの高い中でとにかく基本を徹底することで、すごく上達しました。

「なんだあいつは?」って思われたら勝ちだと思って

──大学に行ってレベルの違いに苦しんだ感じですか?

それはどこに行っても苦しみました。中学から高校、高校から大学、大学からプロ。技術だけでなく身体能力も全然違うし、どこに行ってもそれを毎回感じます。それは改善して慣れていかないといけない。スピードも違いますし。

──青木康平、佐藤浩貴、中川和之、大宮宏正……。波多野選手に限らず、専修大の黄金期はとにかく派手なメンバーが揃っていた印象があります。

確かにみんな個性があって好き勝手やってるんですけど、バスケットになるとみんな真面目でした。根本的に負けたくないという気持ちが強いから、バスケットではみんな結束するんです。

──ソックスやバッシュの色を変えたり、とにかく『普通じゃない』チームでした。

だって目立つヤツらがいっぱいいましたから。その中でもやっぱり目立ちたいと思っていました。僕の場合、プレーでは目立たない。じゃあどうやったら注目されるかというと……そういうことをするしかないんですよ。プロになっても同じで、だから今もずっと続けています。

Bリーグ開幕戦にアフロで臨んだのも同じです。とりあえず「なんだあいつは?」って思われたら勝ちだと思って(笑)。プレーは今まで通り一生懸命やるだけなので。普通にやってたら注目なんかされるわけないじゃないですか。

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