
2019年以来となるウインターカップ出場を決めた東海大学付属相模は、フィジカルの強さを前面に押し出してハードワークするチーム。最も身長の高い選手でも身長190cmだが、ガード陣までサイズが揃ってフィジカルが強く、なおかつ粘り強いディフェンスができるためスイッチしてもズレを作らせずに隙がない。どの選手も鍛えられた分厚い胴体の持ち主で、1ポゼッションごとに100%の力を出しきる果敢な戦いぶりを見ていると、Bリーグで活躍する中山拓哉と佐土原遼が卒業生なのも納得できる、仙台高校で佐藤久夫、東海大で陸川章の薫陶を受けた原田政和コーチは、就任10年目のウインターカップにこのスタイルで挑む。
全国レベルを知り、佐藤久夫コーチ率いる仙台高校へ
──まずは原田コーチが教員になるまで、どんなキャリアを過ごしてきたのかを教えてください。佐藤久夫コーチの教え子で、東海大から教員になっていますよね。
私は秋田県出身で野球をやっていたのですが、小学校4年生で仙台に引っ越して、同じクラスの友達に誘われたのがバスケとの出会いです。彼に出会っていなければ、私のバスケ人生はなかったと言っても過言ではありません。その友人は今は横浜に住んでいて、2019年くらいからずっとほぼ皆勤で県大会の応援にも来てくれています。先日のウィンターカップ予選決勝でも会場で東海大相模の保護者と同じTシャツを着て、熱い声援を送ってくれました。そのミニバスチームは強かったわけではないですが、バスケの楽しさを教えてもらいました。
中学校も強いチームではなかったのですが、中2でジュニアオールスターの選考会に呼ばれました。当時は県内のどの中学校が強いのかも分からず、それでも今は仙台89ERSの志村雄彦や佐藤濯がいて、「すごい選手たちと一緒で楽しいなあ」ぐらいの感覚でした。12人のメンバーに選ばれ、訳も分からないままジュニアオールスターに出場して準優勝しました。決勝で沖縄に1点差で負けたのですが、それが全国レベルを知る機会になりました。
──強豪ではないチームでバスケを楽しくやっているだけで、ジュニアオールスターには出場できないのではないですか。身長が190cmあるわけでもないですし(笑)。
そうですね(笑)。中2で175cmぐらいでしたが、パワーとスピードは結構あったと思います。中学の先生もポジションやプレースタイルなど型にはめることなく自由にプレーさせてくれる指導者でした。当時は深夜に放送していたNBAを録画して、スター選手のプレーを真似してボールを運んだり外から攻めたり、好き勝手にやらせてもらっていましたし、県内の強豪校と練習試合をすれば40得点ぐらい取っていたので、そういうところから推薦をいただけたのではないかと思います。
ジュニアオールスターで一緒だった仲間と進路を相談して、当時の顧問からも「本気でバスケをやるなら仙台高校一択だよ」とアドバイスをいただき、仙台高校に行くことを決めました。久夫先生には本当に鍛えられました。私は2年生までBチーム、3年生でようやくユニフォームをもらってシックスマンで試合に出るような選手でした。1つ上の先輩たちがウインターカップで初優勝して、自分たちの代も優勝したのですが、私は準々決勝までは試合に出してもらって、準決勝と決勝はベンチで一生懸命応援していました。私自身は本当に下手くそな頑張るだけの選手でしたが、久生先生のご指導、素晴らしいチームメートに恵まれて、うれし涙で高校バスケを終えることができました。

ゴールデンエイジの東海大入学で「支える側」へ
──仙台高校から東海大へ進学します。当時はまだ強豪ではなかった時代ですね。
私が入学する年が、ちょうど陸川章先生が来られる年でした。田舎者の私は東海大学湘南キャンパスと聞いて「湘南かあ、良いなあ」と(笑)。つくば秀英でコーチをやっている稲葉弘法、東海大学付属諏訪から東海大のヘッドコーチになった入野貴幸、福岡第一でアシスタントをやっていた今井康輔たちと出会って、陸さんの下で一生懸命バスケを学びました。
陸さんの練習はアメリカンスタイルで、練習メニューが全部組み立てられて、ファンダメンタルを理論的にやります。とにかく過酷だった高校の練習とのギャップが大きくて、仲間たちと「なんか全然キツくないぞ? 大丈夫か?」と話すこともありました(笑)。それでも頭を使うことがすごく多くて、本当に良い勉強になりました。
──同期の仲間たちもコーチとして活躍しています。原田コーチも、この頃から「将来は指導者に」と考えていたのですか。
入野や稲葉は当時から「卒業後は教員になってバスケを教えたい」という強い思いを持っていましたが、私は関東実業団などのチームで仕事をしながらバスケを続けられたらいいなぁ、くらいのつもりでした。
──その考えが変わるきっかけは何でしたか。
大学3年になった時に、いわゆるゴールデンエイジが入学したんです。石崎巧や竹内譲次を見て「自分は上のレベルでバスケをする選手ではないな」と悟ったというか(笑)。
でも彼らを見て心を折られるのではなく、後輩たちのために、チームのために自分ができることをやろうと切り替えて、プレーヤーとして試合に出る努力は続けながらも、外側から見てアドバイスしたり、マネジメント的なことを考えるようになりました。
今になって思うと、そうやってチームを支える側に回ったことで入野も稲葉も私も今こうして指導の現場にいられるのかもしれません。大学4年の時には、卒業後は指導者としてバスケにかかわりたいという気持ちになっていて、学校法人東海大学に就職しました。

「東海大相模というより東海大のスタイル」
──指導者キャリアをスタートさせたのは北海道だとうかがいました。
最初に勤務したのが東海大四高校、今の東海大学付属札幌の事務室でした。その時に東海大四中学校のバスケ部を教えてくれないかと頼まれたのがコーチキャリアの最初です。それで中学校に行ってみたら、現在はBリーガーの須田侑太郎をはじめ北海道のすごいメンバーが揃っていて、4月から指導を始めて数カ月で高知全中で準優勝しました。
翌年の山形全中でも、洛南でキャプテンを務めた平野哲朗や、市立船橋でキャプテンを務めた平良彰大、さらに現在、大変お世話になっているU18日清リーグを担当しているJBAの渡部秀一が中心のチームで全国3位になることができました。この頃の私は指導の幹のようなものもなく、情熱だけで指導してましたので、選手そして保護者の皆さまに恵まれたとしか言いようがありません。
そこから東海大学付属札幌に移って大学生を指導して、最後の年には北海道2位でインカレに出場しました。翌年に湘南キャンパスに戻って陸さんのアシスタントを2年間やらせていただきながら、この東海大学付属相模に教員として入る準備を進めました。東海大相模に来た当初は、今は女子を見られている大石宏志先生のアシスタントとして勉強させていただきました。
──東海大学付属相模のバスケを見てまず最初に感じたのが、サイズは大きくなくてもフィジカルが強くてオールラウンドに戦える選手が揃っていて、「中山拓哉選手、佐土原遼選手が卒業生なのも納得」でした。この『強さ』の部分は意識していますか。
自覚はあります。これは東海大相模というより東海大のスタイルで、バスケット的なところは陸さんはもちろん、最近は入野がヘッドコーチになって、技術的、戦術的なところのアドバイスをもらいますし、私も時間を見付けては東海大の練習を見に行っています。東海大が近いのはメリットなので、自分自身がインプットしているものを東海大相模の選手たちにアウトプットすることを意識しています。