文・写真=鈴木栄一

勝負どころで高いシュート成功率を保ち、京都を攻め落とす

3月25日、琉球ゴールデンキングスが敵地で京都ハンナリーズと対戦。シュート成功率63%と高確率でシュートを沈めるオフェンス爆発によって、89-78でプレーオフ出場を争うライバル相手に勝利した。

琉球が連勝を5に伸ばす一方で、この日は名古屋ダイヤモンドドルフィンズ、大阪エヴェッサが敗戦。これで西地区は2位以下に3チームが同率で並び、さらに1ゲーム差で京都と、混戦模様により拍車がかかっている。

琉球はこの日、エーススコアラーのレイショーン・テリーが欠場。さらにラモント・ハミルトンが第1クォーター中盤で早くもファウル2つを犯し、ベンチに下がらざるを得ない状況と苦しくなる。しかし、ここで岸本隆一、喜多川修平、田代直希といった日本人選手が奮起して、第1クォーターで25-17とリードを奪うと、第2クォーターも主導権をキープし、前半を46-36と2桁リードで終える。

第3クォーターに入ると、ホームの京都が徐々に追い上げていき、流れを作っていく。そして第4クォーターに入ると岡田優介、薮内幸樹の連続3ポイントシュート成功、さらにオフェンスリバウンドからのセカンドチャンスをマーカス・ダブが沈め、残り約7分半で66-66と追い付いた。

だが、この日の琉球は直後に田代が3ポイントシュートを決めるなど、最後までシュートの成功率は落ちず。逆に京都は、速攻からのシュートミスなど要所で決めきれずに失速してしまう。その結果、田代が23得点、喜多川が18得点、岸本が15得点と日本人選手の活躍が目立った琉球が攻め勝った。

効率の良いパスワークと果敢な突破の岸本「自信になった」

琉球の伊佐勉ヘッドコーチは「勝因はチームとしてやろうとしていることの遂行レベルが高かったこと」とコメント。やろうとしていることの詳細について明かすことはなかったが、「細かい動きを練習でやっていて、例えば一歩目の足を出す速さを強調しています。その点で今日の選手たちは素晴らしかったです」と一端を語っている。

また、岸本は「オフェンスで効率良く点数が取れました。練習から取り組んできたことが、長い時間、試合で出せたと思います」と振り返る。また、この日の岸本は、3ポイントシュートで4本中成功なしとアウトサイドシュートで苦戦したが、京都の守備が彼に対して引き気味に守る中でもドリブルで積極的にアタックし、守備を切り崩してのミドルシュートやナイスパスで、オフェンスの良い流れを生み出していた。

この点については「チームとしてパスをよく回し、ドリブルをつかない状態でノーマークを作ることを目指していますが、状況によっては自分が突破しなければいけないことが出てきます。そこを踏まえて、ショットクロックが少ない状況になったら自分から行こうと決めていました。そこで苦しい時間帯に決まって良かったです。僕にとっても今日の試合は自信になりました」と手応えを得ている。

テリー依存の単調なオフェンスから脱却、理想の攻めに

あくまで結果論ではあるが、今日の試合、明暗を分ける大きな鍵となったのはテリーの不在だった。3月18日の三遠ネオフェニックス戦では約24分の出場で42得点を挙げるなど、彼は今の琉球にとっては一番頼りになる得点源である。ただ、一方でテリーがプレーしている時間帯は、彼の1対1が多くなりオフェンスが単調になる傾向も見受けてられていた。

「ゲームを通してもそうですが、特に第4クォーターで追いつかれた後からパスの成功数が多かったです。チームとしてすごく動きながら、ノーマークを作ってのシュートを打てていました。テリー選手がいると彼は点数を取る能力が高いので任せてしまいがちなところですが、彼がいないということが今日は良い方向に働いたと思います」と岸本は語る。

京都のヘッドコーチ、浜口炎も同じ印象を語った。「もしテリー選手が出場したら、彼はボリュームシューターなので1試合20本弱くらいシュートを打ちます。テリー選手がいない分の20本、琉球はシュートを分散でき、いつもシュートを打たない選手も打ってそれをしっかり決めてきました」

このコメントが示すように、今回は浜口ヘッドコーチが「琉球のベストプレーヤー」と評するテリー不在が、逆に琉球にとって多彩なオフェンスをもたらし、京都にとっては的が絞りにくい状況になった。

ただ、これこそが『人とボールがともに動きチーム全体で攻める』という、bjリーグ時代の昨季から琉球が取り組んでいる理想とするオフェンスの形である。

「なかなか結果が出なかった中でも、チームとしてブレずに続けてきました。今、やっと結果が伴ってきたことにすごい充実感があります。ただ、もっと良いバスケットボールをできるとハングリー精神を持っていきたいです」と岸本が語るように、エース不在の危機をプラスに変えられた一番の要因は、何よりも『ブレない信念』だった。