ミロセビッチの急死を乗り越え、チーム活動を再開
ウォリアーズのアシスタントコーチを務めるデヤン・ミロセビッチは、現地1月16日に遠征先のソルトレイクシティでのチームディナーの最中に心臓発作で倒れ、そのまま亡くなった。セルビアから来て3年目を迎えていたコーチの突然の死に誰もが動揺した。チームのすべての活動は休止となり、ジャズ戦とマーベリックス戦の2試合が延期に。そして現地1月22日、2日後のホークス戦に向けてチームは練習を再開させた。
全員が再び顔を合わせて最初にやったのは、セルビアから流れてくる映像を見ることだった。ミロセビッチが現役時代にプレーしたパルチザン、コーチを務めたメガ・バスケットが追悼試合を行っており、彼に捧げる映像が流されていた。
スティーブ・カーは彼の死後に初めてメディア対応を行い、「この1週間にどんな感情があったかは言葉では表現できない。胸が張り裂けそうだった」と語る。ミロセビッチが倒れた夕食の場にはチームのほとんどのメンバーが出席しており、全員が大きなショックを受け、チームはカウンセリングを受けられる手配を整えた。
ウォリアーズの練習場で入口に一番近いコートが、ミロセビッチの普段の居場所だった。そこで彼はビッグマンを指導し、出入りするすべての人と親愛の情を込めたコミュニケーションを取っていた。練習が再開されても『彼のコート』は無人のままだった。
I najveći borci nekad odlaze…🕊️🖤🤍
Dejan Milojevic 1977-2024#KKPartizan pic.twitter.com/ej9sltjU7I
— KK Partizan Mozzart Bet (@PartizanBC) January 22, 2024
そこでミロセビッチと最も長い時間を過ごしたのは先発センターのケボン・ルーニーだ。彼は2015年のドラフト1巡目30位で指名されてウォリアーズ一筋でキャリアを過ごしているが、ブレイクまでに時間を要した遅咲きの選手であり、期待通りの成長が見られずに解雇されてもおかしくない時期もあった。その彼が先発センターの座を確かなものにしたのは2021年で、それはミロセビッチがウォリアーズに来た時期と重なる。自らもセルビアで活躍したビッグマンだったミロセビッチは、ルーニーを粘り強く指導してブレイクへと導いた。
そのルーニーも会見に応じ、『師匠』ミロセビッチの思い出を語った。「最初の何日かはただショックだった。本当にキツいのはその先で、何が起きたのか把握できて乗り越えなければいけないと思うと、つらい思いがどんどん沸いてきた。この数日は誰かに会って彼の話をしたり、残った人たちがどうすべきかの話をして、個人練習は再開させたけど、彼がいないのは不思議な気分だった」
「いつも陽気な人だったけど、指導は厳しかった。僕のプレーを見てアドバイスする時、英語がそれほど得意じゃなかったこともあって、残酷なほどストレートな表現で指摘してくる。積極的にプレーしている時はリバウンドやボックスアウトについて教えてくれるけど、そうじゃなければ『しっかりしろ』と怒られる。僕にとって、彼ほど厳しかった指導者はいない。彼からはよく『平均的であることに甘んじるな』と言われた。常に平均よりも上を、何かにおいて偉大であることを目指せとね。彼に教わったことはずっと受け継いでいくつもりだ」
「彼は明るくて前向きで、正直で自分を偽らない人だった。そして自分の知識とバスケへの愛を誰かに伝えるのが好きだった。僕はそれを忘れない。バスケは人生の喜びであり、バスケを通じて僕らは家族として団結し、友情を築いた。だから次の試合でも楽しみたい。彼に教わったすべてを思い出し、それに敬意を表してプレーするつもりだ。これまで通りの生活を取り戻すのは難しいだろうけど、バスケを楽しみ、日々を大切にしたい」
ウォリアーズの選手たちはミロセビッチを追悼するTシャツを着る。前面にはセルビア語で兄弟を意味する『BRATE』の文字が、背面にはデヤンの愛称である『DEKI』(デキ)の文字がプリントされている。ルーニーに限らずすべての選手が、彼との思い出を胸に、敬意を持ってプレーするはずだ。