イタリア仕込みの高速バスケが世界のスタンダードに

マイク・ダントーニがバスケットボール殿堂入りを果たした。2000年にサンズで、2017年にロケッツでコーチ・オブ・ザ・イヤーを受賞した彼の功績は、今やどのチームも実践するスモールラインナップと3ポイントシュート重視のバスケであり、まだそれが冷笑の対象だった時代に確立して、バスケ自体を変革したことにある。

2000年代前半のNBAは、スパーズやピストンズに代表される重厚なハーフコートバスケが支配し、80点台の試合も珍しくなかった。2003年にサンズのヘッドコーチとなったダントーニは、その常識に真っ向から反する哲学を持ち込む。

相手のディフェンスが整う前、7秒以内にシュートを打つ『7秒以下のオフェンス』。効率の悪いミドルレンジのジャンプシュートを排除し、ゴール下か3ポイントシュートの2択に絞る、現代のアナリティクスバスケの原点とも言うべきスタイルを持ち込んだ。さらにパワーフォワードにショーン・マリオンのような外角シュートを持つ選手を起用するポジションレスの発想。いずれも当時は「そんなお遊びでは優勝できない」と一蹴されていた。

このアイデアは、データ分析ではなくダントーニ自身の経験から生まれたものだ。彼はイタリア移民3世で、現役時代にNBAでは活躍する場を得られずに、自身のルーツであるイタリアでのプレーを選択し、名門オリンピア・ミラノで数々のタイトルを手にする。当時のイタリアはコートが狭く、ゾーンディフェンスが主流で、力任せの突破が通用しづらかった。そして今のヨーロッパバスケと同じく、スペーシングとパスワークが重んじられていた。

そんなイタリアバスケを熟知するダントーニは、引退後にイタリアでコーチに転身し、オリンピア・ミラノとトレヴィーゾで『ペース&スペース』のバスケで結果を残す。それでもヨーロッパでの実績はNBAではほぼ無視され、1997年にアメリカに戻ったダントーニはナゲッツのスカウトからの出直しを強いられる。

ナゲッツのアシスタントコーチを経てヘッドコーチに昇格するも、この時は惨敗ですぐさま解任。ヨーロッパ仕込みの奇抜な戦術は通用しないとの烙印を押され、彼はイタリアへと舞い戻ることになる。

イタリアで栄華を極めても、NBAでは何の実績もないまま50歳を迎えようとしていたダントーニにチャンスを与えたのはサンズだった。前任のヘッドコーチの解任を受けてアシスタントのダントーニを昇格させ、その年は負け越すものの、彼の思い描くバスケを体現する司令塔、スティーブ・ナッシュを獲得したことで2003-04シーズンにチームは大躍進を遂げる。

プレーオフで勝てないことで、否定派は『面白いだけの勝てないバスケ』とダントーニを見下し続けたが、アナリティクスが彼のスタイルを支持した。ダントーニの『7秒以下のオフェンス』は、2つのルートで世界へと広がっていった。

一つは、当時のサンズにGMとしてかかわっていたスティーブ・カーがヘッドコーチとなり、ステフィン・カリーとクレイ・トンプソンの『スプラッシュ・ブラザーズ』を擁したウォリアーズの『王朝』だ。もう一つはダントーニがダリル・モーリーGMと組んだロケッツで、ジェームズ・ハーデンにオフェンスの全権を託し、センターを置かない『マイクロボール』まで先鋭化させた。

殿堂入りのスピーチでダントーニは「バスケは進化している。選手は成長し、フロントは適応し、コーチは革新する。私は変化を受け入れる意欲のある選手やクラブと巡り合う幸運に恵まれ、ペース&スペース、3ポイントシュートに革命を起こす手助けをした」と語る。

「しかし、バスケはなおも進化を続けている。スティーブ・カーのようなコーチたちが、さらに前へと推し進めている。もし殿堂入りがバスケに何らかの影響を与えたことを意味するのであれば、私の功績はとてもシンプルだ。バスケを少しだけ速く、明るく、楽しいものにした」

NBAでなかなか認められなかった指導者キャリア前半も含め、彼にとってはすべてが得がたい経験だ。「愛する人々とともに、愛することを仕事にして人生を過ごした私は、世界で最も幸運な男だよ」