比江島慎が語るバスケ部時代vol.1「勝たなければいけないプレッシャーを背負ってのバスケットボール」

2017/12/20
Bリーグ&国内
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文=鈴木健一郎、三留一恵 写真=野口岳彦

『バスケット・グラフィティ』は、今バスケットボールを頑張っている若い選手たちに向けて、トップレベルの選手たちが部活生時代の思い出を語るインタビュー連載。華やかな舞台で活躍するプロ選手にも、かつては知られざる努力を積み重ねる部活生時代があった。当時の努力やバスケに打ち込んだ気持ち、上達のコツを知ることは、きっと今のバスケットボール・プレーヤーにもプラスになるはずだ。

PROFILE 比江島慎(ひえじま・まこと)
1990年8月11日、福岡県出身。抜群の得点感覚と1on1の強さを備えた『日本代表のエース』。洛南ではウインターカップ3連覇、青山学院大を経て、日本のトップリーグと日本代表で活躍し続けている。波に乗ったら止まらない『比江島タイム』は圧巻。

ミニバス時代に形作られたプレースタイル

僕は福岡県古賀市の出身です。博多から電車で20分ぐらいだし、博多まで出なくても隣の街まで行けば何でもある環境です。それでも6歳でバスケを始めてからはテレビもあまり見なくなったぐらい、バスケに熱中しました。バスケ以外にやった遊びと言えば、池で釣りをしたぐらい。とにかくバスケばかりしている子供でした。

きっかけは兄の影響です。スポーツ好きの兄が小4でミニバスのチームに入って、兄の試合を見に行っていたら監督から「お前もやるか?」と言われて始めたのが最初です。当然ですが、その時点ではプロになるとか日本代表になるとかは全く考えていません。ずっと続くとも思っていなくて、ノリで始めたバスケでした。

ミニバスの『古賀ブレイス』というクラブチームにいたのですが、1対1の練習が大好きでした。当時は遠目からのシュートは監督から禁止されていたので、中までしっかりドリブルして打つように心がけていました。月水金と土日が練習で、平日は21時か22時まで練習していたと思います。他の習い事は全然やらず、ひたすらバスケの日々でした。

ミニバスの監督にはバスケットの基礎から何もかもすべて教えてもらいました。それが今に生きているのは絶対にそうだし、自分のプレースタイルの原型はここで作られたのだと思います。

それで中学は強いチームに行くことにしました。『古賀ブレイス』には村上慎也(福島ファイヤーボンズ)がいて、彼は別の小学校だったのに『古賀ブレイス』に入りたくて転校してきていたんです。彼が強いチームに行くと言うので、「じゃあ僕も」と百道中に。6時半の電車で学校に行き、朝練をやって授業を受けてまた練習。本当にバスケしかやっていなかったですね(笑)。

優勝しても「まだまだ上がいる」という思い

それでも、挫折を味わったのは中学の時かもしれません。ただ純粋にバスケが楽しいからやっていたのが、勝たなければいけないという責任感を持たなければいけなくなりました。小学校でも村上が加わって一気に強くなって、それまでは県大会に行くようなチームじゃなかったのに、勝たなければいけないプレッシャーが出始めました。それで監督にも怒られるし、キャプテンだったので責任もありますし。

それがさらに強くなったのが中学でした。練習はキツい、監督は厳しい。僕のことを思って言ってくれているのは頭では分かっているつもりですが、他の選手のミスで怒られることもあって嫌でしたね。監督は僕の担任でもあって、話すとすごく面白いのですが、部活になると厳しかったです。

ミニバスでも中学でもチームの中心でやらせてもらってはいましたが、自分がその世代でトップの選手だとか思ったことは全然なかったです。全国まで見なくても、福岡県とその周りだけでうまい選手がいくらでもいたので、チームとして結果が出ていたとしても個人としては「まだまだ」と思っていました。

今でも覚えているのがジュニアオールスター(2005年)です。福岡県の選抜チームで優勝したのですが、僕はベスト5に選ばれませんでした。決勝で活躍したので「選ばれるんじゃないかな」と内心思っていて、それで名前が呼ばれないのはちょっとショックでしたね。そうなると周りの選手がすごかったから優勝できたと考えてしまう。自分が活躍しているのではなく、「まだまだ上がいる」という思いでした。

バスケット・グラフィティ/比江島慎
vol.1「勝たなければいけないプレッシャーを背負ってのバスケットボール」
vol.2「ライバルに勝つために、覚悟を決めて洛南へ」
vol.3「自分で自分にプレッシャーをかけて、なおかつ楽しみながら努力した」