文=鈴木栄一 写真=本永創太、鈴木栄一、B.LEAGUE

不測の事態にも動じないチーム作りと采配で、チームを安定して上位に導き、今やリーグを代表するヘッドコーチの一人となった北。現役時代を振り返ると、1990年代中盤から2000年代にかけて日本代表でも活躍する名シューターで、1999-00シーズンにはリーグMVPに輝くなど一時代を築いた。

しかし、現役時代の北にはトップリーグで指揮を執るつもりは全くなかったそうだ。指導者へと転身した経緯について今回は聞いてみよう。

『北なら大丈夫だろう』という雰囲気からの大惨敗

「もともとは学校の先生になるつもりでした。漠然とですが、『学校の先生になってバスケを教えたい』という思いがあって、引退後に東芝のスタッフになることには興味がなかったんです」と北は言う。

「最初にアシスタントコーチを打診された時、まだ選手としてやりたかったので断っていましたが、やる人がいないと前ヘッドコーチの田中輝明さんに頼まれて、最終的にOKしました」

「東芝にはOBがアシスタントコーチからヘッドコーチになる流れがありました。その時、アシスタントは僕一人だったので、流れで言えばヘッドコーチをやるのではと感じてはいましたが、なりたいとは思っていなかったです。ヘッドコーチにと言われた時はいきなりだったので戸惑いました。やるのは僕しかいないと言われたので引き受けましたが、どうやればいいのかも分からない。アシスタントコーチもいなかったので、今も務めている佐藤(賢次)に引退してもらいました」

こうして慌ただしい中でのスタートなった指導者キャリアだが、「皆さんが私の現役時代を知っているので、選手として優勝していることで、『北なら大丈夫だろう』という雰囲気がありました。練習試合で勝ったりしていたので、私も『戦える』と感じていました」

ところが、好感触を持って迎えたシーズン、結果はまさかのリーグ最下位。8勝34敗の大惨敗だった。

シューターのこだわり「適当に打つのは好きじゃない」

当時のチーム状況を見ると、北を始めとして長年チームの中心を担ってきた選手が引退し、世代交代の過度期にあったという面は無視できない。しかし、「今思えば自分の中のやりたいバスケットボールとヘッドコーチ像があり、それをやっていただけでした。ディフェンスからという基本は今も同じですが、当時はこうと決めたことは絶対にやる。あまり選手とは話しませんでした」と、当初は柔軟性を欠いていたと振り返る。

それでも、この苦い経験を経ての2年目、チームは29勝13敗と一気に躍進。そして翌年にはリーグ優勝を達成と、今に続く名将への道が始まっている。

「あれだけ悪かったのに2年目も私に託してくれたので、1年目より悪いことは絶対にないと思っていました。あの1年目があったおかげで、今はどんなことがあっても動じずにできるようになりました。1年目から変わったのは、選手としっかりコミュニケーションを取るようになったことです。選手とは一線を引いてはいますが、他愛もない話もしますし、そこは自分でも年々変わっていると思います」

失敗を糧にして自身を変化させられたのが、成功の一つの要因だろう。さらにはシューターとして活躍した現役時代の経験から、ヘッドコーチから見たシュートへのこだわりを教えてくれた。

「練習していないシュートを試合で打っていると、『それが入るわけない』とは思います。練習で8割は決めないと、試合で5割は決まらない、というのが私のイメージです。今は、3ポイントシュートが35%、2ポイントが50%、フリースロー75%以上をスタッツで残すこと、これが自分のベースになっています」

「やはり適当なシュートを打つのは好きじゃないですね。だいだい1試合トータルで打てる本数は決まっています。そこでいかに確率良く決められるのか。各選手がそれぞれの状況で、いかに自分で考えながら打っているのかを見ています」