文=松原貴実 写真=本永創太 B.LEAGUE

若手から慕われる石崎「必要な失敗ってあると思うんです」

24歳~25歳の若手選手が主力となる今季の名古屋ダイヤモンドドルフィンズの中で、レジー・ゲーリーヘッドコーチが「常に若手の手本になってくれる存在」と信頼を寄せるのがキャプテンの石崎巧だ。

練習におけるストイックな姿勢、緩急をつけて試合の流れを作る技、高いレベルの判断力……ゲーリーヘッドコーチが挙げた石崎の『評価すべき点』は、同時に後輩たちが一目置くところでもある。

「一つひとつのプレーがすごくうまくて、見ていて学ぶことがたくさんあります。一番かなわないなあと思うのはメンタルの強さ。波がなく、自分がやるべきことを遂行する精神力はすごいです」(笹山貴哉)

「ピックの使い方とか自分にない技術を試合の中でも勉強させてもらっています。バスケットの知識もすごく豊富で、あの人を一言で表すなら『賢い』ですね」(中東泰斗)

ヘジテーションを巧みに使った石崎の動きを『石崎ムーブ』と名付けたという藤永佳昭は「言葉より背中で僕たちを引っ張ってくれる人。間違いなくチームの柱です!」と断言した。だが、本人にそのことを伝えると返ってきたのは「へえ、そうなんですか」という素っ気ない返事。

「普段から先輩とか後輩とかそういうのはあまり意識したことはない」と言う。聞かれれば答えるが、自分から進んでアドバイスをすることは少ない。「このままだと近いうちにこいつは失敗するかも」と思うことがあってもあえて口にしない。「必要な失敗ってあると思うんですよ。失敗して学んだことは忘れません。それが成長のチャンスにもなる。先輩だからといってその『学ぶ機会の芽』を摘んでしまうようなことはしたくないんです」

それが石崎流後輩の育て方? と尋ねると「そうかもしれないですね」と、これまた素っ気なく返された。

『目覚め』が遅かった分、前のめりで打ち込むことに

福井県福井市で生まれ、小学1年生の時に母がコーチをしていたミニバスチームに入っ
た。6年次には175cmのエースとして全国大会で準優勝するが、オリックスのイチローにあこがれていた少年は「中学では野球部に入ろう」と決めていた。

当然周囲は猛反対。「中学のバスケット部の顧問の先生や県の協会の方まで家にいらして、君はバスケットを続けるべきだと説得されました」。最終的に入部を決めたのは自分自身だが「正直、渋々……という気持ちがあったのは事実です」

後に進んだ北陸高校では3年次にインターハイ優勝、ウインターカップ準優勝。FIBAアジアジュニア選手権の代表メンバーにも選出され、次代を担う選手と注目を集めた。しかし、その時でさえ、「バスケットに対する強い思い入れがあったかというと、そうでもなかったような気がします」と言う。

もちろんやる以上はうまくなりたいし、試合にも勝ちたい。そのために練習には常に真剣に取り組んでいたつもりだ。「でも、僕は多分バスケットというより勝負事が好きだったんです。バスケットを続けていたのはたまたまそれが得意だったからにすぎず、そういう意味では別に他のスポーツでもよかったのかもしれません」

バスケットに懸ける熱い青春時代の話を聞きたかったのに、ここでもまた肩すかしを食った。ならば、石崎の中でバスケットに対する『思い入れ』はいつ芽生えたのだろう。
「きっかけは東海大に入って、ユニバーシアードの代表選手として世界を見た時だと思います。『ああ、世界にはこんなにいろんなバスケットがあるんだなあ』と思いました。バスケットの面白さ、バスケットの深さみたいなものを肌で感じたというか、目が覚めたというか」

思えば、そこが最初の分岐点。『目覚め』が遅かった分、「もっとうまくなりたい」と前のめりになる自分がいた。3年間所属した東芝を退社し、ドイツに渡ることを決めたのは2010年。「後先を考えない無謀な決断でしたが、自分がいる今のステージからもう一つ上がっていくためには必要なことだと思いました。そうしないとこの先自分が行きたい場所に行けないような気がしたんです」

ドイツで得たものを日本の舞台でどう生かしていくか

乞われたわけではなく、頼み込んでの渡独だった。まずはゲッティンゲン(ブンデスリーガ1部)の練習生としてスタート。一時帰国してbjリーグ島根スサノオマジックで1年プレーした後、再び渡独すると、正式契約を交わしたBVケムニッツ99(ブンデスリーガ2部)の主力ガードとして2年間プレーした。

3年目にはさらなるステップアップを目指して1部のMHPリーゼン・ルートヴィヒスブルグへ移籍。その年の10月6日、開幕戦のコートに立った石崎はドイツのトップリーグでプレーする初めての日本人選手となった。

しかし、現実は厳しい。渡独4年目を前にオファーを得られなかった石崎は再び日本でプレーする道を選ぶことになる。だがそれを『挫折』ととらえてはいない。「正直、もう一度チャレンジしようという気持ちはありましたが、日本に帰って来ていろんなことを見て考えが変わりました。何かを追いかけていくためには何かを犠牲にしなくてはならない。今の自分がやるべきことはそれではないなという気がしました」

「ドイツで得たものは確実にあります。これからはそれを日本の舞台でどう生かしていくかが自分の進む道だと感じました。だから、挫折したとか、夢をあきらめたとか、そういう感覚はありません。名古屋ダイヤモンドドルフィンズで3年目を迎えますが、今はこのチームのために何ができるかということだけを考えています」

必要とされている役割は? という問いには「得意とするピック&ロールで得点を演出すること」と答えたが、自分の強みとは? という問いにはしばし考え込んだ。「自分が誰にも負けないものを探すのは難しいですね。今一つしっくりくる言葉が見つからないんですが、強いて言えば『こだわらないこと』でしょうか。コートの上でも何かに固執するのではなく、毎回これができるというものを拾っていく。そのことだけはできているのではないかと思います」

話を聞きながら浮かんできたのは、常に自分を俯瞰して、過大にも過小にも評価せず、必要なことを黙々とこなす姿だ。そして、後輩たちが魅かれるのはそんな石崎の背中なのではないかと思う。間もなく大詰めを迎えるBリーグ。ここしばらく勝てそうで勝てない試合が続くチームをどう立て直していくか、本当の正念場はこれからだ。それは同時に、ゲーリーヘッドコーチが「強くて、静かなリーダー」と呼ぶ石崎の『頼れる背中』の見せどころでもある。