ライジングゼファー福岡はここまで10勝30敗。西地区では5位、B1全体16位と残留争いの真っただ中にいる。この成績は決してポジティブなものではないが、シーズン序盤にヘッドコーチ交代に踏み切り、チーム作りが出遅れながらも10勝していることは、前向きにとらえることもできる。2年連続昇格でB1に来た福岡にとって苦戦は覚悟の上。今シーズンの成否はここからの20試合で決まる。まずは残留プレーオフに回る15位から18位までの『ボトム4』からの脱却を目指すチームで存在感を強める遥天翼に、終盤戦に向けた抱負を聞いた。
「良い意味で自由、難しいですがやりがいは感じます」
──思うように勝ち点が伸びない状況を、天翼選手は個人としてどう受け止めていますか?
チームは何度倒されようが這い上がろうとしていて、下を向いている暇はないという感じです。僕自身はオールラウンドに、オフェンスもディフェンスも全部できる選手、全部で貢献できる選手になりたいと思っています。得点を取りたいし、仲間が空いていればパスしたいし、速攻では走りたいしピック&ロールでも崩したい。マッチアップする相手が自分より小さかったらポストアップで攻めていきたい。ディフェンスでは相手のエースにも簡単に得点させたくないし、リバウンドも取りたい。バスケットにおけるすべての面で貢献していきたいんです。
ライジングの選手はみんな得点力があるので、僕がこのチームで出すべき特色は身長を生かして低い相手にポストアップして、そこにダブルチームに来れば周りにさばいたり、そうやって起点を作ることだと思います。
──新潟にいた昨シーズンよりも個人スタッツは上がっています。それ以上にイキイキとプレーしているように見えます。自分ではどう思っていますか?
新潟では4番ポジション(パワーフォワード)で、自分より大きくて強い選手に身体を張って守るのが第一でした。オフェンスでもスピードで上回ろうにもフィジカルでどうにもならなかったり、プレーも制限されて自分のやりたいプレーができず、自信を失っていたと思います。フェイダウェイは打つな、3ポイントシュートが打てない場面ではドライブでゴール下まで行け、とか。状況に応じては打ちたいじゃないですか。でも新潟ではその自由がなくて、うまく行かないこともあってメンタル的に落ちたこともありました。今は良い意味で自由で、どの選手も自分で選んだプレーでチームとして合わせようとしています。難しいですが、やりがいは感じます。
──今の福岡は個性豊かな選手が多いのですが、それが噛み合わず安定しない印象です。
安定しないのはやりたいバスケットの軸がまだできていないからです。特にディフェンスはルールが決まっていなくてフリーなんですよ。オールラウンドでもいいけど、軸がブレてはいけないです。今はスタートで出させてもらっているので、みんなを鼓舞しつつプレーで引っ張っていかなきゃいけないと思っています。
──昔は尖った印象も受けましたが、今はチームに溶け込んで貢献しようとする姿が目立ちます。これは自分自身が成長した証だと思いますか?
僕は成長って言葉が好きじゃないんですよ。大学から三菱(名古屋D)に行って3年間プレータイムがもらえませんでしたが、熊本に行ってできることを証明しました。成長ってのは「できなかったことができるようになる」ですよね。僕はもともとできるんだと思っています。それを結果として出せるか出せないか、という考え方なんです。熊本の時も三菱の時も変わらないです。
「ゴールキーパーをやらされるぞ」と脅されバスケを選択
──天翼選手は中国生まれの福岡育ちです。どういうきっかけで日本に来たんですか?
父は中国のナショナルチームのキャプテンでした。ユニバーシアードで神戸に来たことで日本を気に入って、プロを引退して日本に行くことを決めました。まず父が単身赴任で行き、生活が落ち着いたところで僕と母を呼んだんです。
福岡に来たのは僕が4歳の時。最初は近所の草野球チームに入ったんですが、泣いて帰って来て「もう野球は嫌だ」と言ったそうです。それでミニバスのチームに入れたら、その日から雨の日だろうが一人で自転車で20分かけて通うようになりました。
父はバスケ選手で、母は走り幅跳びのプロ選手というアスリート一家です。両親は一人っ子の僕にすべてを賭けてくれました。小学校の時はバスケとサッカー。中学校に上がった時に、「お前は何をやりたいんだ」という家族会議が開かれ、僕はサッカーを選んだんです。それでも父に「お前は190cm以上になるからゴールキーパーをやらされるぞ」と脅されたというか、誘導尋問に引っ掛かったというか(笑)、それでバスケ選手になると決めました。
中学の時にバスケのために百道中に転校して、福岡第一、東海大と強いチームに行かせてもらいました。プロになれたのは、そのためにやりたいことをさせてくれた両親のおかげです。
──日本国籍はどのタイミングで取得したんですか?
国籍は20歳で選ばないといけないんです。親とも相談して、今後も日本にいるつもりだし、日本国籍にしようと。そのおかげでU22の日本代表にも選ばれました。
──日本人と価値観が違うと感じることはありませんでしたか?
価値観ではないですけど、ワガママに育ってきて不器用だったとは思います。言葉を選ばずにストレートに物を言ってたから、大学の友達とか同期にはトガってたと言われたし、自分でも「俺って難しい人なのかな」と思うところもありました。でもそれは言葉の部分で未熟だったからですね。変わったのは結婚してからです。奥さんは受け取り方が人一倍敏感で、僕が何気なく言ってしまう言葉に傷ついて何回もケンカして、そのたびに「私はこう感じて、こう傷ついた」と言ってくれるんです。ケンカするたびにそんな話をして、学んでいきました。
──それはプロバスケ選手としてチームスポーツをやる上でプラスになっていますか?
関係ないですね(笑)。そもそも会話のレベルが人よりトゲトゲしかったのが、普通の人と同じになったというだけなので(笑)。
「ミスをする前からミスを恐れるような自分が嫌でした」
──では、バスケットボールをずっとやっている中で人間的に変わったと思うことは?
大学時代ですね。中学と高校の恩師には申し訳ないですけど、それまでは怒られて委縮しちゃっていたんです。ボールを持つのも怖かったし、ミスをする前からミスを恐れるような自分が嫌でした。そこで陸さん(陸川章)と出会い、アシスタントコーチもそうだったんですけど、メンタルが強くなりました。そこで学んだ一つの軸が僕の座右の銘でもあって、「自分のやりたいことをやろう」です。バスケでも生活する上でも、自分がそうしちゃえよと思ったことをすることで軸ができます。ミスを恐れることがないから自由奔放でいられます。昔はそれがなかったから言葉もトゲトゲしかったんですけど、今は良い感じに優しくなったんじゃないかな(笑)。
もう一つは子供が生まれたことです。責任感が出たのはもちろんですけど、間違いなく癒やされているんですよ。かわいいしぐさを見せる時も泣いている時も癒されて、そこで自分でも気づかないうちに心の余裕が持てていると感じます。
──「自分のやりたいことをやろう」を貫くことでバスケでもプラスになっている?
そうですね。僕は熱いタイプだし、それをプレーで体現できると思っています。それがオールラウンダーな部分にも生きている。僕の強みはこの身長でフォワードをやっていて、攻守に渡っていろんなプレーができるところです。ここからチームとして1試合でも多く勝って、ファンの皆さんを喜ばせたいです。
──地元である福岡に帰って来て、「やってやる」という思いは今まで以上に強いですか?
そういう気持ちになると思ったんですけど(笑)、実際は良い意味で平常心です。福岡はB3から連続昇格してて、そこを支えた(小林)大祐さんやヤスさん(山下泰弘)、さっちゃん(石谷聡)、(加納)誠也のファンが多いので。その中で僕のプレーを少しでも気に入ってもらえればと思ってやっています。まずはチームに貢献して、一つひとつ勝っていくことです。