取材=古後登志夫 構成=鈴木健一郎 写真=仙台89ERS

仙台89ERSの『シンボル』である志村雄彦が今シーズン限りでの現役引退を表明した。プレーオフ進出の可能性は断たれているため、5月5日のレギュラーシーズン最終戦を最後に現役生活に区切りを付けることになる。身長160cmとポイントガードとしても一際小さい志村だが、オールラウンドな能力を発揮し、地元のチームである仙台を長く引っ張ってきた。

2008年に仙台89ERSの一員となってからちょうど10年。その間には東日本大震災があり、プロバスケットボール選手としての意識にも大きな変化があった。「本当に幸せでした」と表現するキャリアを、志村とともに振り返りたい。

[引退インタビュー]引退表明の志村雄彦
「選手としてのキャリアを終えてでもやる魅力がある」

「プロ選手は、まず自分を知ることが重要です」

──160cmと小さな身体ですが、必死に戦う姿はコート上で一際目立ちました。サイズがないことはやはりネックだったのか、それともプラスにとらえていたか、どちらですか?

自分の良さも悪さも客観的に見ることが、プロ選手にとってすごく大事だと僕は思います。強みだけ知っていてもダメだし、弱みだけ知っていてもダメだし。究極を言えば良いところが多くて悪いところが少なければ一番ですけど、まずは自分を知ることが重要です。僕の場合、小さいことは揺るぎないです。変な話ですが、自分より小さい選手とマッチアップすることがなかったのは幸運でした。自分より大きい相手、高い相手、強い相手にどう戦うかを常に考えてきました。もちろん、「もっと身長があれば良かった」と思うこともありましたけど、この身長でやれることを証明し続けることが、志村雄彦の意義であったのかなと思います。

──コート上で見せるリーダーシップの印象も強いです。小さい選手だからこそ、リーダーシップの面で活躍しようという意識はありましたか?

どれが欠けても志村雄彦じゃなかったと思いますが、リーダーシップを意識していたのは事実です。それはプレーで引っ張ることもそうだし、声の掛け方もそうです。リーダーシップは一日で培われるものではありません。その日にシュートがすごく決まったからリーダーシップを出せるわけではないですよね。日々の練習への取り組みだったり、普段のみんなとの接し方だったり、そこから意識はしていました。

それは高校時代にこの身長でも試合に出て、日本一になれた経験が大きいのかもしれません。そこで「自分でもやれる」という自信を得られました。高校時代はみんな全国を目指して入って来て、そのために激しく練習して、結果も出すことができました。その環境に身を置いて、プレーヤーとしての土台を作ってもらえたのはすごく大きかったです。もちろん慶應の仲間もそうですけど、仙台高校の代表としてプロとして頑張ろうという気持ちが僕にはすごくありました。

仙台に来て、そして震災を経験して変わった『プロ意識』

──初めてプレーしたのは実業団の東芝(現在の川崎ブレイブサンダース)でした。小さい選手を取らないJBLでの挑戦でしたが、当時の東芝はどんなチームでしたか?

みんなすごくレベルが高かったですね。節政(貴弘)さんと(佐藤)賢次がいて、(石崎)巧も入ってきて、その中でやるのはすごくタフだったし、人生で初めてぐらいの挫折をしました。3年間メインで試合に出ることができず、苦しみました。でも、その挫折がすごく良い経験になったんです。あの時は自分のことが客観視できておらず、「なんで試合で使ってくれないんだ」と言っていたんですが、何としてもまずは試合に出なくちゃいけないと考える中で、次第に自分を客観視できるようになりました。

──bjリーグ4年目の2008-09シーズンから仙台へ。JBLからbjへと活躍の場を移しました。

第一にプレータイムが欲しかった、そして地元に89ERSがあるということで決断しました。JBLと違うことが多かったので、最初は戸惑いました。それでも同じバスケットですから、その環境で結果を出さなきゃいけないなと。プロとしての自覚、チームで勝つことも大事ですけど、その中で個人としても結果を出そうと考えました。東芝では社員だったので、プロ意識という点では89ERSに来てから変わったと思います。

──東日本大震災の影響でチームが活動休止となった2010-11シーズンには、琉球ゴールデンキングスでのプレーも経験しています。背番号『89』にはどんな思い出がありますか?

あそこから僕のバスケットに対する考えが変わりました。それまでは仕事、お金を稼ぐ手段と考えていたのですが、あそこでスポーツが周囲に与える影響力の大きさが理解できました。自分がバスケットボールをやることで多くの人に影響を与えられる、自分のプレーが少しでもみんなの頑張りにつながったり、仙台の街を明るくできると分かったんです。自分のために仕事としてプレーしていたのとは大きく違いますよね。

──キャリアを振り返って、一番意識した選手を挙げるなら誰ですか?

意識したのは青木康平さんです。僕とサイズ的にはそう変わらず、少し大きいぐらいでしたが、僕にない得点能力だったりはピカイチだったので、インパクトはかなりありましたよね。特に東京アパッチの時は同じカンファレンスだったので、僕の中ですごく刺激になっていました。

キャリアを振り返ると「負けた時の印象が強い」

──仙台では10シーズンを過ごしたことになります。ターニングポイントはいくつもあったと思うのですが、これだけ長く仙台89ERSと向き合えたのはなぜでしょうか。

まずは中村(彰久)さんが契約してくれたことが一番です。そして震災を機に、自分が周りにどのような影響を与えられるかを意識するようになりました。プロバスケットボール選手のキャリアとしては、仙台に固執しなければより良いものになったかもしれないし、個人的にはもっと成長できたかもしれません。優勝も経験できたかもしれない。でも、そこで「仙台のために頑張ろう」と思って続けてきたのも志村雄彦らしさなのかなと思います。

プロ選手としては、良い条件のところに行くべきだったのかもしれません。それがプロとしては当たり前のことだと思うんです。でも、あの時に僕は仙台のために何かをやりたいと思ったし、それは優勝することだと考えました。震災後は地元になかなか明るいニュースがなくて、みんなが苦しんでいる時に優勝をともに勝ち取りたいという思いがありました。優勝することはできませんでしたが、ここでキャリアを終えられることは幸せです。

──キャリアで記憶に残る試合や出来事を挙げるとしたら?

悪いことのほうが記憶に残りますね。琉球でbjリーグのファイナルまで行ったことは、あそこが自分の中で転機だったこともあり印象に残っています。bj最後のシーズンに秋田にホームで負けたのも悔しかったし、B2降格が決まった富山の時もそうだし、負けた時の印象が強いです。

──志村雄彦のプレーヤーとしてのキャリアはどんなものでしたか?

本当に幸せでした。バスケットを通していろんなことを学べたとみんな言うと思いますが、僕は愛するスポーツで長くプロとして続けられて、いろんな人と出会えて、学生時代は何回か優勝させてもらって。何より一番最初にボールを手にした時から今まで、試合に出続けられたことが幸せでした。バスケットの醍醐味は試合終了のブザーが鳴る瞬間にコートにいることです。それを何度も味わうことができて、勝とうが負けようがそれは良かったと思います。

そうやって僕がコートに立てたのも、ファンの皆さんが見に来てくれて応援してくれたからだと思っています。ケガがあったり試合に出られない時期も、みんなの一人ひとりの顔を思い浮かべて、コートに立たなきゃいけないと思ってやってきました。まだ残り数試合ありますので、皆さんと一緒に一つでも多く喜びたいと思います。