2010年、国内にJBLとbjリーグという2つのリーグが存在し、日本バスケットボール界が混沌としていた時代にプロバスケットボール選手として歩み始めた大塚裕土は、数々のクラブで様々な経験をした。その一つひとつは次のクラブでの挑戦に生かされ、最後に辿り着いたのは強豪クラブでも古豪クラブでもなく、新規参入クラブのアルティーリ千葉だった。彼が歩んできた道を振り返ってもらい引退までの経緯、これからの目標について語ってもらった。

プレースタイル確立のきっかけとなった中村和雄の言葉

──まずは長い現役生活お疲れ様でした。選手生活を終えていかがでしょうか?

まだ正直実感はありませんね。今はこれから携わるユースの練習や試合を極力見に行く生活を送っています。休まなきゃいけないと思っているのですが、自分は休めない人間なんだと気付かされました(笑)。

──あらためてご自身のキャリアを振り返ってもらいたいと思います。大学を卒業した後に、リンク栃木ブレックス(現・宇都宮ブレックス)の下部組織にあたるD-RISEからキャリアをスタートさせました。

ブレックスがJBLで優勝した次の年に加入したのですが、多くの選手が日本代表に選ばれているチームでできたことで、『これがプロなんだ』ということを最初に学べたのはすごく大きかったですね。

──そして活躍の場をbjリーグに移しました。

1年目はドラフトで宮崎(シャイニングサンズ)に加入しました。厳しいシーズンを乗り越えた後に、小さい頃から夢見ていたカテゴリー(NBL)に進むのか、もう1年bjを経験するのか、キャリアの中でとても悩んだ時期だったのですが、秋田(ノーザンハピネッツ)の中村和雄さんから毎日のようにマネージャーを通じて連絡をいただいて「ぜひ一緒にやりたい」とおっしゃってくれたことが大きく、bjでプレーを続ける決意をしました。

──キャリアの転換期となった秋田への移籍ですが、実際に中村さんの下でプレーしていかがでしたか?

大人になってあそこまで厳しく指導してもらえるというのはなかなかない経験でした。自主練習の進め方や、試合に対しての準備や向き合い方といったところは、すごく学ばせてもらいました。「思いきりシュートを打ちなさい」と言ってくれたのも中村さんだったので、自分のプレースタイルを確立する自信に繋がったのも中村さんのおかげですね。

──中村さんの指導の厳しさは、よく耳にしていました。

僕と田口(成浩)はいつも「2点はいらないから(3ポイントシュートを)打ちなさい」と言われていました(笑)。当時は本当に一生懸命すぎて、なんでそれを言われていたのかはわかっていなかったのですが「迷わないで打ちなさいよ」というところだけは忘れずにプレーしていました。

振り返ってみると、富樫勇樹のピック&ロールを上手く使うために、両サイドに思いきり良く打てるシューターを置くようにしていて、その役割を担っていました。アライメントがとても整ったバスケットで、それぞれの個性を生かしたチーム作りをしていたんだなと、指揮官が変わって動き方が変わった時に『あ、なるほどな』と気付かされました。

オールスターMVP選出と天皇杯優勝がもたらしたモノ

──キャリアを通して『挑戦』することが多かった印象があります。

そうですね。その気持ちは土台にありました。特に富山(グラウジーズ)に移籍した時は『今シーズン頑張らないと、選手としての存在価値が消えちゃうな』という危機感と覚悟を持って移籍しました。エージェントと「リーグに認知してもらえる選手にならないといけないよね」という話をしたこともあり、富山さんが「中心選手としてやってほしい」というオファーもしてくれたので、チャレンジしました。

──中心選手として価値を見出すのは並大抵のことではありません。富山は宇都直輝選手や水戸健史選手といった選手が当時から在籍していました。

チームを牽引していた彼らとの相性は、良いイメージがありました。トランジションでパスがポンポン飛んでくるプレースタイルは富樫とプレーしていた時に近いプレースタイルだったのでそれに合致したことが大きかったですね。

──富山在籍時にオールスターMVPに選ばれたことも認知を上げるポイントになったのではないでしょうか?

それは間違いなく大きかったですね。本当にあそこで自分のキャリアがまた一つ上がったんじゃないかなと思います。プレッシャーもありましたが、それを乗り越えた時の達成感は特別でした。

──あの試合は第3クォーターで固め打ちをしました。短いプレータイムで結果を残すルーツのように感じます。

気持ちを作るために準備はかなりしていますね。Bリーグ初年度のサンロッカーズ(渋谷)の時に、短いプレータイムで結果を出さなきゃいけないことを経験しましたし、結果を出すことができた経験もその後の競技人生に生きていると思います。

──川崎ブレイブサンダースでの天皇杯優勝の時もその経験は生きていますか?

そうですね、めちゃくちゃありましたね。川崎に入った初年度も天皇杯のファイナルに行ったのですが、結果は負けでした。でもプレーで貢献していたイメージや実感がなさすぎて、『優勝したとしても自分にとっての価値はないよな』と思っていました。だから1年後に再び決勝の舞台に立った時は、『貢献して優勝したい』という気持ちがあって、プレーの準備やパフォーマンスを出すためのメンタルセットができたと思います。

──自分の価値を見出すために様々な試行錯誤をしてきて、アルティーリ千葉ではこれまでの経験を還元することを求められたと思いますが、チームを牽引する立場として意識したことはありますか?

実際にキャプテンはプロになってから一度もやったことがなかったのですが、川崎の時に篠山竜青がキャプテンを務めていました。彼が僕の1つ下にも関わらず、ずっとキャプテンとしてチームを引っ張ってきた姿を見て、彼をサポートしたいなという気持ちが芽生えて、いろいろなことを考えて行動してきた経験がアルティーリ千葉に来てからも生きました。

ルーキーでD-RISEに入った時に田臥(勇太)さんや、(安齋)竜三さん、山田謙治さん、竹田謙さん、伊藤俊亮さんといった様々な先輩を見てきたことで、引き出しが自分の中にできたことは良かったことですね。