
2024年の元旦に起きた能登半島地震は、石川県の輪島市と志賀町で震度7を記録した。輪島市にある日本航空石川でも大きな被害が出て、さらに能登空港に隣接するキャンパスが政府と自治体の災害応急対策と復興支援の拠点となったことで、バスケ部の活動だけでなく学校生活も送れなくなった。東京の青梅市への仮移転を経て、能登に戻れたのは今年5月のこと。それでも今も「すべてが元通り」ではない。そんな状況でも日本航空石川は「考えながらやるバスケ」でチーム力を高め、初めて石川県予選を制して3年連続3回目のウインターカップに挑む。
高校2年で「バスケってこうやるんだとひらめく瞬間」
──まずは橋田コーチの選手としてのキャリアがどんなものだったのかを教えてください。
父が監督、母がコーチという環境で育ち、自然とバスケを始めました。普通に地元の中学校に上がるとバスケ部の顧問が未経験の方なので、どうしようかと思っていた時の遠征で鷲野鋭久先生から声を掛けていただいて、大治中と藤浪中でファンダメンタルを、神戸龍谷高校でバスケの考え方を学び、愛知学泉大では自分に足りない熱血の部分を指導いただきました。社会人でもありがたいことに声を掛けていただいて、秋田銀行で4年間プレーしました。
──そこで日本航空石川から誘われたということですね。
はい。現役を引退して地元に戻りたいと思っていたところで、ちょうど先生が代わられるということでお声掛けいただきました。実は大学4年の時にも「地元の人間にコーチを頼みたい」と誘っていただいたのですが、就職先が決まっていたのでお断りしていたんです。
──キャリアを重ねる中で環境はいろいろ変わったと思いますが、橋田コーチの中でバスケ観が変わったような時期はありましたか。
バスケ観という意味では高2の夏から冬にかけてですね。対戦相手に勝ちたい気持ちで自分の得意なプレーをしていたところから、急に世界が開けたというか。特にきっかけがあったわけではなく、積み上げてきた練習の中でいきなり「バスケってこうやるんだ」とひらめく瞬間がありました。
高校までは5人で一つのことを成し遂げるアプローチでしたが、大学ではポジションごとに役割が明確になり、それぞれが自分の役割に徹するスタイルになり、その変化に苦労しました。自分がポイントガードとして、ゲームメークとは何なのか、どうやるのかを、その道の職人を作るように指導していただきました。
社会人では仕事とバスケの両立が大変でした。8時から17時まで正社員として勤務した後に集まって練習する。社会人なので働くのは当たり前ですが、そのルーティーンに慣れるまでが大変でした。現シャンソンVマジックの小笠原真人コーチが監督で、年齢もそこまで離れていなかったので、一緒にやっていて面白かったし勉強になりました。

「この選手たちはクリエイティブなバスケができる」
──そうして日本航空石川に来て8年目。指導のスタイルは最初から一貫しているのか、模索しながらこの形にたどり着いたのか、ここまでどんな感じでしたか。
私が来た時は県でベスト16とかベスト8のチームだったので、私の求めるレベルと選手たちの求めるレベルのギャップが結構ありました。その時は選手に目線を合わせなければいけないと学んだし、その中で「今目指しているところの少し上」を目標にできるようアプローチしました。
石川県には全国ベスト4まで行っている県立津幡、鵬学園という2つの強豪チームがあって、最初は「勝てっこない」だった選手たちの意識が、「やれるぞ」、「勝てるぞ」と変わったのが4年目ぐらいからですね。それとともにディフェンスやリバウンドという「頑張らなきゃいけない最低限のところ」を頑張れるようになりました。
ウインターカップに初出場した一昨年の選手たちは身体能力は低くても、指示したことをすぐ表現できる賢さがあり、「この選手たちはクリエイティブなバスケができる」と思えました。去年の選手たちは経験はありませんでしたが気持ちが強かったし、今年のメンバーは一歩一歩積み重ねることができます。最初は「行け、やれ」だったのが、ここ半年ぐらいで頭を使うバスケを考えながらやるようになってきました。
──「考えながらやるバスケ」が日本航空石川の大きな特徴だと思います。今の選手たちだから頭を使うバスケができる、という部分はありますか。
今年はインターハイに出場できませんでした。「ある程度のレベルなら大丈夫だけど、そこから先では通用しないよね」となった時に、どう戦っていくかをテーマにして、選手それぞれに個人的な課題を与えて、それは身体能力の強化でこの部分でキレを出すとか体力をつけるとか、その提示されたトレーニングをコツコツ継続していました。それと同時にバスケに対する勉強、上手くやっていく力を少しずつ積み重ねてきました。
「U18日清食品ブロックリーグ」を通じて、練習でコツコツ積み上げたものを試合でチャレンジしてみて、失敗したり成功したりする中で成長しています。今の選手たちは「コツコツやること」ができる子たちです。
──「考えながらやるバスケ」のできる高校のチームは決して多くありません。選手に考えさせるためには、プレーする上での明確な基準、優先順位があると思います。
ディフェンスでギャンブルをしない、シュートファウルをしない。その「我慢」の徹底ですね。今までは相手のフリースローアテンプトがすごく多いことで、分かっているのに我慢できずにファウルをする。身体能力でブロックショットできると思ってしまう。「そうじゃないよ」と理解させるまでに時間がかかりましたが、最近はようやくフリースローが減りました。それでレイアップに行かれる場面は増えたとしても、フリースローを与えなかったところを評価しています。ここは積極的に行く、ここは我慢する、という線引きは明確に伝えるようにしています。

「今はいらない」と「今は出す」をコントロールする
──ギャンブルっぽいスティールを狙って、成功してそのままワンマン速攻に行けたとしたら、チームは盛り上がりますよね。そこで「ダメだよ」と指摘するわけですか。
それを成功体験にしてはダメだと思っています。「この相手には通用したけど、全国のトップに行くチームには通用しない」という言い方をします。
──選手に多くを考えさせず、目の前のことに集中させた方がガッツは出せます。つまり、頭を使うバスケを推し進めると、その代償として攻守のインテンシティは下がると思います。とはいえ、ハッスルを否定するわけではありませんよね。
そうですね。もともとガッツはある選手たちで「行け」と指示するだけでもある程度はやれます。今でも頭で考えるより先に身体が動くことはありますが、それは楽なプレー、ラフなプレーだと指摘します。ガッツは一番最初に必要だけど、次はそれをどう出すか。「今はいらない」と「今は出す」をコントロールするのが大事だと伝えています。
──シンプルにすごいと思うのは、それを留学生までできていることです。我慢してファウルせず、ガッツを出すべき時にはちゃんとハッスルできます。
ギリギリで我慢して、ファウルしないですね(笑)。
──留学生とのコミュニケーション、我慢のところに課題を抱えるチームは少なくないと思います。ジャキテ・マリエ選手の『はんなり不動心』は特別に見えますが、橋田コーチからはどんなアプローチをしていますか。
マリエはもともと、稀に見る穏やかな子です。留学生は、分からないことがあっても聞かなかったり、英語でしゃべればいいでしょ、みたいなプライドのある子が多いのですが、マリエは素直に「分からないから教えて」と言えます。
マリエのもともとの資質もありますが、3年生の子たちがみんな優しくて、部活動だけではなく学校でも寮生活でもマリエを受け入れてくれているのも大きいです。もちろん私もバスケは教えますが、留学生に付きっ切りというわけではありません。でも最初に比べればだいぶバスケが上手くなりましたね(笑)。日本語もまだまだ上手ではないですが、勉強したいといつも言っています。