沖縄は日本屈指のバスケ王国で、琉球ゴールデンキングスのホームゲームはリーグ屈指の観客動員と熱狂度を誇る。昨年には『沖縄アリーナ』がオープン。日本バスケ界の今後の指針となる夢のアリーナは、来年夏に行われる男子ワールドカップの開催地であり、沖縄バスケットボールの存在感はどんどん高まっている。
だからこそワールドカップをより楽しむためにも今、沖縄とバスケットボールの結びつき、沖縄という土地の魅力を紹介すべく、所縁のある人物たちへのインタビューを行っていく。今回登場するのは沖縄県八重瀬町出身、現役時代はWリーグの強豪デンソーアイリスで司令塔として長らく活躍し、引退した今もバスケットボール界に深く関わっている伊集南さんだ。
小学生の頃、テレビ放送されていたNBAをきっかけにバスケの道へ
──まず、現役を退いた後、今はどのような活動をされていますか。
デンソーアイリスで7年プレーし、この4月を迎えると引退してから2年になります。引退後もデンソーからオファーをいただき、バスケをメインとした社会貢献活動が私のメインの仕事になります。社外の仕事も『デンソーの伊集』として活動をさせていただいています。
女子トップリーグのWリーグでは、若輩者で最年少ですが理事をやらせていただいています。3人制バスケの3×3は、私も日本代表として活動していたので、引退後にJBA(日本バスケットボール協会)の3×3の代表部会にもかかわっています。パリオリンピック、ロスオリンピックと続いていく競技ですし、エンタテインメント性が高く、今後も注目されると思っています。
またバスケとは関係ないところで、車いす支援団体のオフィシャルサポーターとしても活動しています。デンソー設立50周年の社会貢献事業の一つであるWAFCA(アジア車いす交流センター)は、NPO法人として愛知県刈谷市に事務所を置いて活動していて、デンソーは海外にも拠点がある中、まずはタイを中心に障がいを持った海外の子供たちへの車いすの提供、自宅のバリアフリー化を支援しています。私はオフィシャルサポーターとして、WAFCAの支援金を募る仕事などをしています。
──沖縄バスケットボールについて聞く前に、バスケを始めたきっかけを教えてください。
私はバスケの始め方がちょっと独特で、小学校では男の子に混じって真剣に野球に取り組んでいる女の子でした。運動神経が良かったので、男の子と同じレベルでやれるのがすごくうれしかったです。女の子というより一人の野球選手として見てくれる監督、周りの仲間たちと一緒に、野球に熱中していました。
ただ、6年生の時にやっぱり中学校では別の競技をやった方がいいかなと思い、何をしようと考えた時、たまたまテレビを見ていたら世界最高峰のNBAが放送されていて、そこで一気に魅了されました。そこから見様見真似で一気にハマっていって中学校からバスケを始めました。
──当時好きなチームや選手はいましたか?
私が見始めた当時は、マイケル・ジョーダンがワシントン・ウィザーズでプレーしていました。そして黄金時代だったデトロイト・ピストンズ、コービー・ブライアントもすごく印象的に残っています。結構、昔の選手が好きで、当時ピストンズの中心選手だったラシード・ウォレスとベン・ウォレスの『Wウォレス』、テイショーン・プリンスもすごく覚えていますね。
「沖縄に良いニュースを届けられる人になりたい」
──高校は沖縄の強豪、糸満高校でそこから名門の筑波大学へと進学されます。初めて沖縄を離れての暮らしで印象に残っていることはありましたか。
糸満高校では「ここに集まった仲間たちと全国に行きたい」と明確な目標を持って入学したことを覚えています。ただ、結局は再延長で負けるなどあと一歩のところで全国に行くことはできませんでした。高校卒業後に実業団という話もありましたが、このままだと自分が潰れてしまう、大学でバスケ以外の専門知識も学びながら自分の人生を考えたいという思いもあって進学を選びました。そこで筑波大に入学できたのは、突拍子もないことでした。
筑波大には3つしか推薦枠がない中、私には全国レベルの実績がなかったんです。それでも父が高校の恩師である渡慶次(とけし)先生に相談をし、何のツテもないですがアクションを起こそうと、自分たちでプレー集のDVDを作って大学に送りました。その後は神頼みの心境でしたが、実際に「推薦枠に入ったぞ」と言われた時には「私でいいの?」とキョトンとしたことを覚えています。職員室でそれを聞いた時、その場にいたすべての先生と握手をして喜び合いました。いろいろな人のおかげで繋がっている人生だと本当に思います。
大学に入学して最初の1年目は本当に苦しみました。新しい環境、学校の講義に慣れないといけない。バスケの練習を必死で追いつかなきゃいけないと、タスクが多すぎてパニックというか、本当に毎日が必死で大変だったのはすごく覚えています。ただ、例えホームシックになったとしても絶対に沖縄には帰らないと決めていました。それは自分が筑波大に行けた経緯、沖縄を離れる時に那覇空港まで見送りに来てくれた仲間、後輩たちの姿を見た際、「何かを成し遂げてからじゃないと帰ってはダメだ」と思ったからです。伊集は頑張っているなと、沖縄に良いニュースを届けられる人になりたい。すぐ帰ってはダメだ、弱音を吐いてはいけないという思いで必死にやっていました。
──よく沖縄のバスケは独特と言われます。実際、伊集さんはどう思いますか?
大学1年生の時に周りとの違いを感じました。1対1を仕掛ける時にレッグスルーをたくさん用いるとか、ワンハンドでシュートを打つとか、当時は筑波大でもそういうプレーをする選手は珍しかったので、私のプレーが『沖縄の独特なリズム』と見られていました。周りも伊集は個でアクションを起こすという意味で型にハマらない、他の選手とは違うという印象がすごくあったとは思います。周囲は「すごい」と見てくれていたと思うのですが、1年生の時は『浮いているのかも』と感じることもありました。
でも私にとって『バスケは魅了するもの』で、プレーしているコート上にいる選手と観客が一体となり、会場から歓声が上がるのが沖縄のバスケットボールだとずっと思っています。沖縄では子供たちがコートを囲んで座っていて、たくさんの人たちが並んで見ていて指笛、ラッパ、太鼓、声を出しながら応援して盛り上がります。それが当たり前と思っていました。大学で試合をすることで沖縄は特別だった、沖縄で私が始めたバスケは素晴らしいものだと再確認しました。
取材協力=スポーツアイランド沖縄