NBAキャリアを過ごしたスパーズは「大きく強く支えてくれる家族」
マヌ・ジノビリは、スパーズに捧げたNBAキャリア16年の中で優勝4回、オールスター選出2回の実績を誇る。その彼が、2022年のバスケットボール殿堂入りを果たした。
表彰式のスピーチでジノビリは、スパーズ時代の相棒、すでに殿堂入りを果たしたティム・ダンカンにエスコートされて壇上に上がると「緊張で心臓の音が聞こえるよ(笑)」と冗談を言い、これまで何度もそうしてきたように「スポットライトを浴びるのが好きなのは君の方だから、代わりにスピーチしてくれよ」とシャイなダンカンをイジってから、「スパーズとアルゼンチン代表、2000年代で最も重要な2つのチームでプレーしたから、僕はここに立っている」と続けた。
「そして僕がバスケを始めた時からプレーしてきたクラブもそうだ。最初のクラブチームは家から1ブロック先にあって、僕はそこで長い時間を過ごした。父がクラブの責任者で、2人の兄もプレーしていた。母はコーチだった……というのは冗談だけど(笑)、学校に迎えに来て食事をさせてクラブに連れていくのが母の役割だった。夕食の時間までドリブルとシュート、ドリブルとシュート、ドリブルとシュート。僕がバスケへの愛情を育むには理想的な環境だった」
「18歳でプロになって、別にすごい選手だったわけじゃないけどオファーがもらえたから乗った。アルゼンチンで一緒だったすべてのコーチとチームメートにあらためて感謝を伝えたい」
「そして海外に行くチャンスが来て、僕はイタリアに渡った。大変な時期だったけど、僕を信頼してくれるコーチと経験あるベテランが僕を助けてくれた。僕はボローニャにステップアップして、今日ここに来ているエットーレ・メッシーナがチャンピオンになるために必要なものを僕に教えてくれた。
「NBAは僕にとって非現実的な目標だった。でも、あなたと最高のチームメートと一緒にプレーして、ユーロリーグで優勝したことで意識が変わった。イタリアでの経験は本当に価値あるものだ。選手としてだけでなく、人間としても成長させてもらった」
ボローニャ時代の恩師メッシーナが、スパーズにジノビリを紹介した。ジノビリは1999年のNBAドラフトで指名された日のことを「スパーズに57位で指名されたと聞いて、僕がまず言ったのは『何だって!?』だった。信じられなかったし、何かの間違いだと思った」と振り返る。
「NBAに行く期待なんて全くなかった。ゼロだ。スパーズの関係者と話したこともなかったし、エージェントからも何も聞いていなかった。会見に必要な派手なスーツも帽子もなくて、そもそもサンアントニオが世界のどこにあるかも知らなかった。でもそのスパーズは、僕にとって大きく強く支えてくれる家族になった」
「16年も同じクラブで、同じコーチの下でプレーして、たくさん勝ったしたくさん負けたし、たくさんの友達ができて素晴らしい経験がたくさんできた。みんなに感謝しているけど、もちろんその一人がポップだ。僕にとって家族にとって、コートでもコート以外でもお世話になって、どんなに感謝しても感謝しきれないよ」
「感謝を伝えたい人の名前を挙げていったら100じゃ足りないね。本当に、心から感謝したい。試合に向けて準備して、一緒に食事をして、勝つ時も負ける時もみんな一緒、本当に素晴らしかった。ありがとう」
スピーチの締めくくりは家族へのメッセージだった。「最後に1分だけ、スペイン語で」と、長いキャリアを支えた家族へ感謝を伝える時だけは、ジノビリの目に涙があふれた。