ジョーダンは当初『マイケル・ジョーダン』を提案
1997-98シーズンのマイケル・ジョーダンとブルズを追ったESPNとNetflixのドキュメンタリー作品『The Last Dance』が、いよいよ日本でも本日配信となった。
ブルズの黄金期を支えたジョーダン、そして彼を中心とするチームの様子を収めた貴重な作品が、23年という月日を経て公開されるため、世界中から注目されている。この作品公開に先立ち、ジョーダンに関するエピソードも多く出ている。その中の一つ、ジョーダンの代名詞『エア・ジョーダン』誕生の由来を、元代理人のデビッド・フォークが明かした。
フォークによれば、それは一瞬の思い付きで決まったことだった。
ノースカロライナ大学出身のジョーダンは、1984年のNBAドラフトにエントリーし、全体3位でブルズから指名された。フォークによれば、ブルズとの契約をまとめる前の時点で、シューズ契約の話が進んでいたという。今でこそNIKEといえばジョーダンだが、当時の彼は競合他社との契約を考えていた。
フォークはNIKEとの契約の方がメリットがあると考えたが、まだ若かったジョーダンは、交渉に向かう飛行機にすら乗りたがらず、両親の説得があってようやく交渉に向かうことに。それでも、その感触が上々だったため、後日ワシントンであらためて話し合いの場を設けた際、フォークはナイキの礎を築いたロブ・ストラッサーに対し、「もし君たちが本気でマイケルと契約したいのなら、彼をテニス選手のように扱い、シューズや洋服のブランドも作ってもらいたい」と伝えた。
この要求を検討すると答えたストラッサーから、「ブランドの名前はどうする?」と、逆に聞かれたジョーダンは、少し考えてから、「ブランドの名前は『マイケル・ジョーダン』が良い」と返答。だがストラッサーは「君のブランドを立ち上げるにしても、それには名前が必要だ。『マイケル・ジョーダン』ではダメだ」という問答が続いたという。
その時フォークが、「エア・ジョーダンはどうだ?」と提案。その理由は、当時NIKEがエアテクノロジーをランニングシューズに導入し始めた時期で、ジョーダンがプレーしているバスケットボールは空中でのプレーが多い、というダブルミーニングからだった。すると、その場にいたデザイン担当のピーター・ムーアがペンを走らせ、翼の生えたバスケットボールのイラストを描き、『エア・ジョーダン』のロゴ第一弾が生まれた。
その後『エア・ジョーダン』シリーズは世界中で大ヒットすることになったのだが、もしジョーダンとNIKEの契約が合意に至らなかったとしたら、今のバスケットボールシーンは少なからず様変わりしていたに違いない。