『バスケット・グラフィティ』は、今バスケットボールを頑張っている若い選手たちに向けて、トップレベルの選手たちが部活生時代の思い出を語るインタビュー連載。華やかな舞台で活躍するプロ選手にも、かつては知られざる努力を積み重ねる部活生時代があった。当時の努力やバスケに打ち込んだ気持ち、上達のコツを知ることは、きっと今のバスケットボール・プレーヤーにもプラスになるはずだ。
1991年7月14日生まれ、鹿児島県出身のビッグマン。延岡学園、青山学院大を経て東芝神奈川に加入し、NBL優勝に貢献した。Bリーグ初年度を川崎ブレイブサンダースで迎え、2年目の今シーズンからは京都ハンナリーズでプレーする。日本代表候補。
「大きいだけの選手ではなかった」ミニバス時代
僕は生まれた時が3600グラムぐらいで、物心ついた時には周りの友達より頭一つ大きかったです。バスケを始めたきっかけは父です。高校時代にバスケをやっていた父が、その後も遊びでやっていたバスケに一緒についていくうちに興味を持ち、小学校3年生でミニバスを始めました。
小学校の頃から結構うまかったです。当時の先生は「センターばっかりやっていたら、中学や高校で通用しなくなるよ」という考えで指導してくれました。だからいろんなポジションをやらせてもらって、ボール運びをやってパスも出せて、ちゃんとジャンプシュートも打てました。そういう指導をされていたので、僕の中にも「身長が止まるんじゃないか」という不安が常にあって、ゴール下の動きだけじゃなくボールハンドリングの練習も頑張ってやっていました。大きいだけの選手ではなかったです。
と言うか、当時は大きかったというよりデブだったんです。しかもものすごいデブ(笑)。ユニフォームが一人で着れなくて、友達に手伝ってもらうぐらいの。
太ってはいましたが、からかわれたりはしなかったですね。僕はちょっとトガってたんです。親に対して反抗的だったりしたことはないんですが、公園でケンカするような問題児でした。試合でも「チームメート以外は全員敵」みたいな感じで、気に喰わないことがあったらすごく引っ張ったりとか。今でも小学校の友達に会うと「丸くなったね」と言われます。
「もっと頑張る姿を見せなきゃいけない」の気持ちで
小学校6年の時に九州大会に行って、中学ではレベルの高いチームでやりたいと思いました。ジュニアオールスターのヘッドコーチをやっていた先生に教えてもらいたくて、その校区だった祖母の家に引っ越してその中学に入りました。
僕にとって、そのタイミングが大きな転機になりました。中学に入ってもまだ多少はトガっていて、周りにもそういう友達がいっぱいいたんですけど、ケンカっ早かったり教室の窓ガラスを割ったり、そこで「俺がこれをやっていたら試合に出られなくなっちゃうぞ」と思ったんです。そこで自分がバスケットボールが大好きで、それが一番大切なんだと感じて、もともとのトガった部分を「バスケットのために」と抑えられるようになりました。
バスケのために引っ越して、その中学校に入れてもらったんだから、親に対してもちゃんとバスケでもっと頑張る姿を見せなきゃいけないという思いもありました。そういう意味では、僕はバスケに守ってもらったんだと思います。
もう一つ変わったのが痩せたことです。当時はまだスパルタで、ものすごくキツい練習をするチームだったんですけど、走るメニューになると僕だけいつもみんなより遅いんです。みんながシュートを打とうとしている時にまだハーフコートにいたりとか、ディフェンスも全然戻れなかったりして。それで先生から「お前、こんな調子だったら試合で使わないよ」と言われ、挙句には「家に帰ってもお菓子ばかり食べてるんだろ?」みたいなことまで言われて、それにカチンと来て。先生に対して「絶対に見返してやろう」と。
永吉流ダイエットで「自分を変えた」ことが自信に
そこから中学生なりに自分で考えて、食事制限をしました。まず炭水化物を抜きました。当時好きだったのが、ご飯の代わりにキャベツでカレーを食べるキャベツカレーですね。それでも成長期だから、どうしてもお腹が空きます。それで、今では考えられませんが、ひたすら牛乳を飲もうと。普通に考えたら脂肪なんですけど、そこが中学生らしいところで(笑)。
キツかったですが、それで一気に痩せました。筋肉が落ちたどうこうはあまり感じなくて、むしろ格段に走れるようになったので、それがすごく楽しかったです。こうやって話していると笑い話ですが、僕にとってすごく大きな変化だったと思うんですよね。あそこで太ったままだったら、どこかの相撲部屋に入っていたと思うんですよ(笑)。それが自分で自分を変えようと決意して、変わることができた。それは大きな自信になりました。
そうして鹿児島県の選抜に入り、ジュニアオールスターに出て準優勝もさせてもらって、全国を見るようになりました。中学の時はもう「高校でどうするか」を考えていて、高校の時は大学のことを考えていました。高校の時は、スラムダンク奨学金に応募してアメリカに行ったらどうなるのかな、とか。いつも次のステージのことを考えて、それを目標にして一歩ずつステップアップしていきました。
永吉佑也が語るバスケ部時代
vol.1「トガっていた僕はバスケに守ってもらった」
vol.2「ちょっと辛いぐらいの寮生活が心地良かった」
vol.3「今はビッグマンでも世界に出たら全然違う」