B1屈指の人気を誇る琉球ゴールデンキングスは、2年目のシーズンに優勝を目指すべく大型補強に踏み切った。人気と実力を兼備したビッグクラブへと飛躍する大勝負を任されたヘッドコーチは、33歳の佐々宜央。状況は変わりつつあるが、まだまだ実績を残した選手がコーチになるケースが多い日本のバスケ界において、選手としての実績はほぼ皆無ながら、大学とトップリーグで勝利を重ねてきた佐々は異質な存在だ。コーチ一筋のたたき上げである佐々のチャレンジを『バスケット・カウント』は追いかけていきたい。
1984年5月13日、東京都出身のバスケ指導者。東海大の陸川章、日立の小野秀二、栃木ブレックスのトーマス・ウィスマン、日本代表の長谷川健志と錚々たる指揮官の下でアシスタントコーチを務め、この夏に琉球のオファーを受け入れヘッドコーチとして独り立ち。「今いる選手の技術や心を含めてチームを作っていく」とポリシーを掲げる。
琉球ゴールデンキングスの指揮官として、ヘッドコーチとして初となるシーズンを戦っている佐々宜央。これまで数々の勝利を積み重ねてきたが、『補佐役』である以上はメディアに取り上げられることも多くはなかった。連載企画の第1弾として、佐々がどのような経緯でバスケットボールコーチを志したのか。その点を詳しく聞いていきたい。
「強いチームでバスケをしたい」と東海大へ
──もともとプレーヤーだった佐々さんが指導者への興味を持ったきっかけは何ですか?
中学3年生の時、夏の大会で引退すると大会がないので、顧問から残ってチームを見てくれてと言われたところからですね。中高一貫校にいて受験勉強がなかったこともあり、そこから後輩にバスケを教えていく中で、将来は教員になってバスケットボールを教えたいという思いが芽生えました。
──佐々さんは成蹊中学・高等学校の出身です。安倍晋三総理の出身校でもあるエリート校ですが、バスケで有名なわけではありませんよね。中学や高校のバスケ生活はどんなものでしたか?
中学校の時、たまたまですけど強くて、新人戦で東京の2位に入り、僕もジュニアオールスターに入りました。そういうこともあって、高校では強いところ、國學院久我山、世田谷学園、八王子とかに行きたかったんですが、親に『わざわざ中高一貫の進学校に入ったのに何を言っているんだ』と言われ、そのまま成蹊高校に進学しました。バスケに力を入れていない進学校でも関東大会とかに行ければと思っていましたが、やはり才能が集まる高校では、行ってもベスト32、ベスト16くらいでした。
そうなると「やはり強いチームでバスケをしたい」と考えるわけです。進路を考える際に、将来の教員志望という点も踏まえて相談したところ、両親から「好きな進路を選びな」と言ってもらえたんです。いろいろな先生に相談する中、ちょうどその頃の東海大学は陸さん(陸川章)が就任して2、3年目、当時まだ関東の2部で良い選手も行っていない状況でした。良い先生がいて、これからのチームはやり甲斐がある。しかも教員免許も取得できる。条件がすべて揃っていたんです。
──高校進学の際にはできなかった『バスケ重視の進路』を大学選びではできたわけですね。
でも、予想外のことが2つあったんです。まず体育学部の受験当日におっちょこちょいをやらかしてしまい、質問を読み間違えて大きな項目をすべて間違えたんです。「終わった……」と思いましたね(笑)。幸いなことに、帰国子女で英語ができたので、文学部も受験していたんです。そちらは無事に受かったので、体育ではなく英語の教員になろうと思いました。
東海大学は総合学科として体育の授業も取れるので、単位はたくさん取っていました。面白いのは内海慎吾(京都ハンナリーズ)も同じ文学部だったんです。能代工業から体育学部に行かず文学部にいて、英語コミュニケーション学科で一緒でしたね。
入学からわずか2カ月でBチームのヘッドコーチに
──体育の教員免許がないのは意外です。もう一つの予想外のこと、というのは?
いざ大学に入って部活を頑張ろうと思っていたら、当時は『J5』と呼ばれたテレビ、雑誌で見ていたメンバーが一気に加入してきたんです(編集部注:竹内譲次、石崎巧、内海慎吾、井上聡人、阿部佑宇という世代屈指の5選手)。それでも選手として、まずはBチームでもやりたいと希望したのですが、東海大学には付属高校出身の選手たちもたくさんいて、バスケットボール部の人数が決まっているという事情もありました。
入部申請書の『指導者希望』の欄に○を付けていたので、陸さんに「選手としてやらせてあげることもできるけど、どうせなら今からコーチの勉強をしていた方がいい。選手も多いので、できればコーチとしてバランスを取ってほしい」と言われました。当時ただの18歳の若者だった自分は、大学の監督にそう言われて「嫌です」とは言えませんでした(笑)。
──思わぬ形で選手から指導者へと転向することになったわけですね。
そうですね、思ってもいなかった形でのスタートです。まずはBチームのコーチになって、僕の上に大学院生のコーチがいたんですが、2カ月くらいすると就活が始まっていなくなりました。そのため6月から、いきなりBチームのヘッドコーチになったんです。
──こう言っては失礼かもしれませんが、年上の選手たちは言うことを聞きましたか?
言い争いも相当ありました。でも、「こいつについていこう」と言ってくれる先輩たちのおかげで続けられました。Bチームのヘッドコーチを2年間やって、良いか悪いかは分からなかったですが、毎日戦っていたつもりです。その中で評価してくれた先輩が、僕が3年生になる時、陸さんに『こいつはAチームで学生コーチをやらせた方が力になりますよ』と言ってくれて、3年生から陸さんの下で学生アシスタントをやりました。