三屋裕子

文=鈴木健一郎 写真=前田俊太郎

川淵三郎からの「ちょっと助けてくれない?」という電話から、三屋裕子の挑戦が始まった。日本バスケ界の混乱期、簡単な仕事ではないのは誰の目にも明らか。それでも2020年の東京オリンピックは決まっており、ここを最初の目標として、ガバナンス改革、新リーグの成功、代表チームの強化と、様々な課題を解消しなければならなかった。今も世間では、三屋裕子と言えば「ロス五輪で銅メダルを獲得したバレーボール選手」のイメージが強いのかもしれない。だが、今は日本バスケットボール協会の会長としてリーダーシップを発揮し、ドラスティックな改革をリードしている。東京オリンピックまであと1年。改革のリーダーにこれまでの道のりと2019年の抱負を聞いた。

「制裁解除に向けたお手伝い」からのスタート

──バレーボール選手として1984年のロサンゼルスオリンピックに出場して銅メダルを獲得。引退後は高校の教員、大学の講師などを務めながらバレーの指導、それと同時にご自身で会社経営もされていた三屋会長がバスケットボール界に来ることになったきっかけから教えてください。

2015年の早春、まだ寒い時期に川淵三郎さんから電話をいただきました。「ちょっと助けてくれない?」というお話で、「そんなに負担はかけないから」と副会長になりました。ちょうどタスクフォースが立ち上がって、理事と評議員に退任していただき、新しい体制が6月にもできるという状況で、1年ぐらいのお手伝いになるのかな、と自分では感じていました。

もともとバスケット界に詳しかったわけではありません。NBLとbjリーグの2つがあること自体が分からず、ニュースやネットの記事を見て「大変そうだなあ」と。最初は何が問題なのか、それまでの経緯の説明を受けて、月1回の理事会に出ながら制裁解除に向けたお手伝いをさせていただきました。2015年8月のセントラルボードが東京であって、そこで制裁の解除が認められ(注:同6月のエグゼクティブボードで事実上の制裁解除が認めらていた)、女子の日本代表がギリギリでリオ五輪の予選を兼ねたアジア選手権(現アジアカップ)に出場できることになりました。

2016年の2月に、川淵さんから「3月の臨時評議員会で新しい会長を決めるんだけど、僕はもう定年規定を作ったので再選はない。だから後任に」と。寝耳に水で、自分が会長になるとは全く思っていませんでした。ですが、川淵さんには「この改革を止めてはいけない」という強い思いがありました。自分にできるとは思いませんでしたが、「やるべきか」、「やりたいか」と考えたらチャレンジしたいという気持ちがありました。

──その時点で、バスケ界に明るい展望はなかなか見いだせなかったのではないかと思います。そこからまずは課題を整理し、一つひとつ解消してきたと思いますが、一番最初にやったことは何でしたか?

社長をやった時の一つの教訓として、右腕と左腕みたいな人と一緒じゃないと絶対にできないと思ったので、大河(正明)さんと田中(道博)さんの2人に加わってもらい、ユニットで仕事をすることにしました。大河さんにはBリーグに専念してもらい、事務方のトップには田中さんを迎え入れられたところからグランドデザインは仕上がっていきました。

三屋裕子

「大変じゃなかったことは一つもなかったですね(笑)」

──引き受けた当初の想定と比べて大変だったことは何ですか?

大変じゃなかったことは一つもなかったですね(笑)。何かを一つ決めるごとに批判や抵抗があるので、「こんなに物事って進まないんだ」と思いました。始めた時は八方ふさがりな感じでしたよ。私が会長になる時の臨時評議員会も結構すったもんだしたし、その後に理事を決める時もそうです。ある意味では、47都道府県でいろんな方々がいて、それぞれちゃんと自己主張されるんだと感じました。目の前に壁があって、その向こうに明るい展望もあったと思うのですが、最初のうちは見えなかったですね。

──Bリーグも2016年9月の立ち上げ間際に形になって、その半年前にはほとんど何も具体的な形になっていませんでした。

6月の時点でも、9月に発足というのは分かっていたけど、海のものとも山のものとも分からない状態でした。リーグや協会の中も、昔の感覚で仕事をしている人と新しい人、企業から来た人と文化が様々あったし、業務フローもちゃんとなかったし。ないものばかりでした。

川淵さんはブルドーザーみたいにガーッと道を空けてくださいましたが、積み残したものもいっぱいあったので、それを丁寧に拾いながら。今もまだ不備はたくさんあるので、そこを修正しては付け足しながらやっています。会長になった当初、明るい展望を感じられるのは試合を見に行く時だけでしたね。明るい展望というか、唯一の癒やしだった気がします(笑)。

特にリオオリンピックの女子日本代表は面白かったですから。仕事はいくらでもあったので、日本を離れるのもどうかと思ったんですけど、現地まで行って選手たちと話したり試合を見たりして、彼女たちの戦いからはすごくエネルギーをもらえました。

──川淵さんが『抵抗勢力』と呼んだ人たちもいます。先日はFIBAの役員が来日し、今の協会の改革を称賛するとともに、『抵抗勢力』への疑問を投げ掛けました。ただ、「古い人たちは悪、新しい人たちは正義」という簡単な二面性では語れないのではないかとも思います。

考え方を真逆にしてもらう必要があったので、改革についていくのは大変だったと思います。それでも各都道府県の協会にはちゃんと仕事をしていただいています。今回は5府県がFIBAに質問状を出したと思うのですが、その5府県についても機能していないわけではありません。制裁を受けた時、最終的に気の毒なのは選手でした。それを一番分かっていたのはバスケット関係者で、そこは頑張って我々の改革に合わせようとしてくださる部分も多く、そこには感謝しています。

ただ、最終的に「サッカー界やバレー界から来た人間が上に立つのは許せない」という話にされてしまうと、どうしようもありません。我々のやっている施策がバスケ界の人たちを苦しめる、日本バスケ界のためにならないのであれば、そのご意見はいくらでもうかがいます。でも、「サッカーだから嫌」、「バレーだから嫌」と言われても回答のしようがありません。

三屋裕子

謝罪会見は「彼らがなるべく復帰しやすいように」

──リーダーシップの形は人それぞれです。組織の長として何を大事にしていますか?

私はサーバントリーダー的な感じですね。責任を取るところは取るという姿勢を見せつつも、それぞれがやりやすい環境を整えて、私自身はサポートしていく。その組織、その人に合ったやり方を見付ける能力が大切だと私は思っています。

──それはバレーボール選手としての現役時代や、その後の経験から来たものですか?

そうでしょうね。私は大学で教員を長くやってきて、主役は常に学生と思ってきました。この組織も主役は選手です。選手あっての協会、リーグだと思っています。選手をどう生かすか、選手をどう守るか。それが協会の役目であり、その協会のトップとして選手たちにどういう環境を作るか、常にメッセージを発信していかなければならないと思っています。

また協会を支えているのは職員なので、彼らがどうやったら働きやすくなるのか。今までになかった人事制度を入れたり、この中から人を育てる文化を作らなければいけない。自分が主役になってそれをやるのではなく、その主役にどう光を当てるのかを考えたいです。

──「選手を守る」ということだと、昨年夏の日本代表選手の謝罪会見がありました。問題を起こした4選手を、帰国したその日に会見に出させる決断はなかなか重いものだったと思います。

帰国してから2時間、彼らの事情聴取をして、出来事を時系列に書き留めて間違っていないかを確認して、今日はありのままの事実を話してくださいとお願いし、彼らの承諾を得て出てもらいました。彼らにとっても非常に厳しかったとは思いますが、選手ファーストとしてとらえた時に、彼らが軽率な行動をしてしまったのは事実で、そこは消せない過去です。消せないことを隠し立てたり上塗りしても仕方ありませんし、そうすれば、それこそ一般の方やメディアに方に必要以上の噂、詮索の種を与えてしまうことになります。一方で、では彼らが選手として致命的なことをしたかと言えば、そうでもないと思います。だからこそ彼らに反省を促すことと同時に、復帰のための足場も作りました。賛否は甘んじて受け入れます。だけど私は彼らのことを最大限に考え、彼らがなるべく復帰しやすいようにと考えて、あのような形を取りました。