U18女子日本代表のスコアラーである奥山理々嘉を擁し、昨年のウインターカップでは過去最高位となるベスト4という成績を残した八雲学園。今でこそ全国大会の常連となったが、始まりは5対5もできない弱小チームだった。八雲を率いて39年目を迎える高木優子コーチに、現在に至るまでの道のりを振り返るとともに、ウインターカップへの意気込みを語ってもらった。
「バスケットの審判を極めようと思っていました」
──まずは先生の自己紹介からお願いいたします。
八雲学園の高木優子です。今年で39年目になります。中学からバスケットを始めて、高校を卒業後、日本女子体育大学でも続けました。
日本女子体育大学というのは関東学生の中では3強で、当時は部員が170人くらいいました。15人だけ試合に出て、あとの150人くらいが彼女たちを支えるんです。私は身長も大きくないので、プレーをしながら審判の勉強をしていました。
教員になるために大学へ行き、公認審判を取るために大学で学んだんです。大学を卒業して八雲学園に赴任した後も、コーチをしながら審判の勉強を続けていました。
──バスケットを指導するために教員になる方は多いですが、審判を志す方は珍しいですね。
審判になるのは当たり前。女性の審判が1人か2人しかいないあの時代、その世界の中で私はバスケットの審判を極めようと思っていました。だから以前の私はバスケットの指導者より審判として名が知られていたんです。チームを見ながら審判を続けていましたが、38歳の時にひざをケガをして100%のパフォーマンスができなくなったので審判は辞めました。もしケガをしていなかったら、女性として日本初の国際審判を目指してやっていたと思います。
──今でこそ強豪校と呼ばれる八雲学園ですが、東京都は学校数も多いですし、ここまでチームを育て上げるのは苦労が多かったのではないでしょうか?
すごくありますよ。それこそ八雲に来た時には、約350チーム中のビリくらいのチームでした。最初は90-6くらいで負けるボロボロのチームだったので。審判を続けたほうが良いと思うでしょ?(笑)。強くしようと思って練習を多くすると、すぐ辞めてしまって部員が3人くらいになっちゃうし。試合ができずに自分が練習に入ったりしていた時期もあります。6年目で関東大会に出場して、そこから徐々にですね。
「コートの中には先輩も後輩もないと言っています」
──インターハイではベスト8で桜花学園に敗れました。桜花学園との差はどこにありますか?
全然歯が立たないわけではないんですが、ポイントで桜花学園という名前に負けています。正直に言うと、それを叩きのめそうというメンタルの強さがない。そこは自分で勝つしかないわけです。そこでベストを尽くすための努力を自分自身でやっていく、自分に対して厳しくしないと。よく体罰問題で言われますが、言われてやらされているうちは絶対に強くなりません。
──ただ、高校生の年代の選手にとっては簡単なことではありませんよね。
話をするしかないですね。昔の人は叩きましたけど。私は高校時代、試合中に叩かれて「何するんですか!」って言い返したことがあります。ウチのチームは結構自由ですよ。私は体育大育ちなので、すごく厳しい上下関係があったんですが、この学校に入った時からコートの中には先輩も後輩もないと言っています。そういう中でやっているから、練習を見ても誰が上級生で誰が下級生か分からないと思います。だから1年生からスタートで出る選手も多いし、奥山は去年からキャプテンです。これまでも2年生がキャプテンをやったことは何回もあります。
──その奥山理々嘉選手は先生の自宅に下宿していると聞きました。
奥山は1年間、地元の横須賀から2時間かけて通っていました。それであまりにも寝る時間がなくなってしまうのと、もう少し練習したいというので、近くに住めたらいいと話をしていました。私は近くのマンションに住んでいたんですけど、そこを引き払って新しく家を借りたんです。
──アンダーカテゴリーの代表で活躍するような選手を指導する上で気を付ける点は?
それぞれに個性があるわけじゃないですか。その子の良さを伸ばしてあげて、気づかない欠点を取り除くということだけです。奥山は普通の子と違ってメンタルも強いので、誰が教えてもあそこまでいきますよ。
奥山は180cmあるので、センターだけをやれば点数は取れます。でも彼女には3番、2番になりたい願望があるので、じゃあ外のシュートも打ちなさいと。何でインサイドをやらせないんだという人もいるかもしれませんが、私のコンセプトは弱い時からずっと変わってないです。当時170cmくらいの子でも外をやらせていました。
「ボールが小さくなり、ハイスピードバスケの時代に」
──今でこそポジションレスになってきましたが、当時は背の高い人がインサイドと決まっていたと思います。
こういう時代が来るだろうと思っていました。一つのきっかけとしては15年前くらいかな、ボールが7号から6号に変わった瞬間です。これでバスケットは外から攻撃できる選手じゃなきゃダメだと。女子の場合は7号だと片手で扱えないのですが、ボールが小さくなればパスは飛ぶし速さも出る。シュートの距離も伸びます。これはもうハイスピードバスケですよ。
今は4年ごとではなくなりましたが、昔はオリンピックが終わるとルールが変わりました。私は卒論がバスケットボールのルールでした。ルールが変われば技術も変わります。ルールを変えることで技術を進化させてきたのが今のバスケットの成り立ちなんです。
私は中学1年からずっとバスケをやっています。ということは49年間。もうすぐ50年になりますが、プレーヤー時代からずっとバスケットが面白いのは常に変化するからです。ルールが変わってどうするか、それを考えるのはやっぱり楽しいですよ。
──高校の指導者として選手を育てる面白さも、それと同じですか?
その時その時でいろんな生徒が入って来ます。同じじゃないからそれは面白いですよ。教員になった理由はそこで、モノを作るのであればいつも同じだけど、生徒を教えることは全部違うんです。1000人いたら全員違うし、家庭も違う。どう育つかは分からないけど、それにかかわるのって面白いじゃないですか。最初の教え子はもう50歳を超えています。長く続けると言いますが、やるのが当たり前で、空気みたいなもの。それがなくなったらどうするんだろうって(笑)。
──『ハイスピードバスケ』というキーワードが出ましたが、あらためてウインターカップではどんなバスケをしたいのか教えてください。
トランジションの早さです。攻防の切り替えの早さからのシュート、これがいかに入るかです。相手があることだから、どういう結果になるかは分かりませんが、1試合1試合自分のチームのベストを尽くしていけば勝てるんじゃないかなとは思っています。