文=鈴木健一郎 写真=古後登志夫

バスケットボールでは選手上がりのコーチが長身でも別段驚きではないが、東海大学のヘッドコーチを務める陸川章はとりわけ背が高く、面と向かって話すにはかなり見上げる必要がある。ただ、それで威圧感を与えるようなことが全くない。表情豊かで身振り手振りも交え、言葉もマシンガンのように出てくる。年代別の代表でも実績のある陸川コーチを選手は最大限にリスペクトしているが、同時に「陸さん」と気安く呼びかけてもいる。天性のスポーツ好きで、話すことが好きで、情熱を持って選手を指導している陸川コーチに話を聞いた。

「中村雅俊さんとオリンピックの影響」でバスケに

──まずは東海大バスケ部のコーチになるまでの経緯、経歴について聞かせてください。

私は中学まで陸上をやっていました。新潟の雪深いところの出身なので、小学校では春はソフトボール、夏は水泳、秋は陸上、冬はスキーのノルディック、ほぼずっと自然相手のスポーツをやっていました。中学は小さな学校で選択肢も少なく、走るのが速かったので陸上を選びました。

バスケを始めたきっかけの一つがオリンピックです。私は夏も冬も全部の競技をテレビで見るほどオリンピックが好きで、オリンピックの選手になるのが夢でした。1976年のモントリオール五輪でバスケットボール女子日本代表の生井けい子選手が活躍して、海外の大きな選手の間を駆け上がってレイアップを決めるシーンとか、アメリカ代表のキャプテンがコールする姿を「カッコ良いなあ」と見ていたんです。もう一つは中学生の時に『俺たちの旅』という中村雅俊さんのドラマがあって、大学のバスケットボール部のキャプテンの役柄なんです。それにすごくあこがれましたね。

──意外に、と言っては失礼かもしれませんが、ユルい感じで始められたんですね(笑)。

そうなんです。高校入学の時点で身長が190cmぐらいあった私は、高校ではバレーをやるつもりだったのですが、入学すると全中でベスト8に入った3人の選手が「バスケをやろう」と声をかけてくれて、その時に中村雅俊さんと生井選手のイメージがばあっと頭に湧いて「よし、やるぞ!」と。バレー部の先生に入部しませんと謝って、そこからバスケを始めました。

高校は新潟県立新井高等学校です。スキーでは有名で、当時、女子のノルディックリレーはインターハイ優勝、2014年のソチオリンピックで銅メダルを取ったスキージャンプ団体ラージヒルの清水礼留飛選手は、彼もお父さんも新井高校の出身です。バスケ部は強くなかったんですが、自分たちが頑張って名門校に勝ってやろうと打ち込みました。

初心者が少しずつうまくなっていく、『SLAM DUNK』みたいな話ですよ。『柔道部物語』を描いた小林まことさんに自分たちをモデルにして『籠球物語』を描いてもらおう、なんて仲間と言ってたら『SLAM DUNK』が出ちゃった。しまった、先にやられたぞ、って(笑)。

「私の成功体験は、バスケじゃなくて仕事なんです」

──大学は日本体育大学に行き、卒業後は実業団のNKKシーホークスでプレーしました。

バスケットを始めたのが遅かったのですが、ガードに負けないぐらいのスピードで走っていましたから、速攻がメインの日体のバスケにフィットしました。大学3年でナショナルチームに入れていただいて11年、キャプテンも2年務めました。

NKKでは15年プレーしたのですが、バブルが弾けてチームが休部になりました。その少し前に、引退後はNKKの監督になりなさいという話があったんです。「それだったらアメリカの大学に勉強に行かせてほしい」と会社にお願いしていたら休部が決まってしまい、「お前がそういうことを言うからチームがなくなるんだ」なんて冗談で言われました。

思い返すと、その時点で大学生のバスケットボール部で指導したいという思いはあったんです。子供が大人になる年代を、情熱を持って指導して『一端の男』にしてやりたいなと。ただ、いろいろ声は掛けていただいたんですけど縁がなくて、それでNKKでみっちりサラリーマンをやることにしました。課長だったので部下も十数人いて、100人ぐらいが働いている工場を回すマネジメントの長になりまして。毎日かなりエゲつなかったです。「お前はバスケしかしてないだろ」と面と向かって言われることも少なからずありました。

──NKKで長く務めても、それまではバスケ中心だったわけですから大変ですね。

それでも私は負けず嫌いだし楽天家だから、あまり悪く考えずに仕事に打ち込むんです。夜中の2時とか3時まで残業して帰ってくる時には「バスケなんてもんじゃなくキツいなあ」と思うんですが、「最初からできるヤツなんていないよ」と心の声がささやくんです。

そんな感じで続けていくうちに仕事もうまく行くようになり、日本で作ったことのないあるプロジェクトを成功させたんです。これはすごい話なんですけど、この話をすると長くなって『プロジェクトX』になっちゃうからやめておきましょう(笑)。とにかく失敗の連続からスタートして、みんなで集まって力を合わせて最後に鉄鋼新聞の表紙になるようなプロジェクトを成功させました。これが私の成功体験で、バスケじゃなくて仕事なんです。支援してくれる仲間を集めて、スケジュールを管理すること。そして絶対にあきらめないこと。それはサラリーマンをやる中で学びました。

──バスケから離れて成功体験を得て、その時は何歳ぐらいだったのですか?

それが39歳の時です。中学校で読んだ孔子の教えで『四十にして惑わず』だけはなぜか覚えていたんですが、そこで心の声が「バスケはいいのか、バスケは……」と言うんです。その声が毎日大きくなるんですよ。それで仕事はすごく順調だったのですが、奥さんに「会社を辞めていいか。アメリカに行ってコーチの勉強がしたい」と打ち明けたんです。両親は私のやりたいようにやらせてくれるし、ウチには子供がいませんから、奥さんだけには相談しました。そこでダメだと言われたらすっぱりあきらめようと。それでも奥さんが了承してくれたので、会社に辞めると伝えました。会社は心配してくれて「どうするんだ、大丈夫か」とか「会社を辞めてバスケの勉強なんて馬鹿じゃないか」と散々言われたんですけど、間違いなく行って良かったです。

「コーチ・リク、選手は機械じゃないよ。人間だよ」

──バスケを始めるのが遅かっただけでなく、コーチを始めるのも遅かったのですね。指導者としての第一歩が、アメリカでのコーチ修行ですか。

そうです。NKKに2回来てくれたデーブ・ヤナイさんのところで勉強させてもらいました。その教えが私の土台になっているし、東海大の選手たちの土台にもなっています。デーブさんは、「2つの山を登りなさい」と言うんです。心の山と技術の山です。この2つを登った時に、もう一つの山であるチャンピオンの山が見えてくると教えてくれました。ただし、どちらかだけを登っていても、絶対にそこには行けない。それはNKKでも教わったことです。

空港に迎えに来てくれたデーブさんの第一声が「コーチ・リク、選手は機械じゃないよ。人間だよ」でした。彼は日本にもよく来ていましたが、20何年前のことですから、コーチは選手を駒として扱うし、暴言は吐くし、しばしば殴る時代です。私はそういうのが昔から大嫌いでした。ロサンゼルスだから、チームには白人の選手と黒人の選手がいるのはもちろん、メキシカンがいて、リトアニアの子、日本の子、韓国系の子もいました。肌の色も宗教も全部違うんですが、片言の英語でも情熱と愛情を持って接したらちゃんとつながるんです。

指導の基本に何を置くか、それはやっぱり人間性とか人を思いやる気持ちとか、さっき言った『心の山』が絶対のベースになります。これなくしていくらうまくても、私には何の魅力もありません。そんなチームで勝ちたいとも思いません。人としての土台があって技術や戦術が乗るし、その先にチャンピオンチームになれるんだと思います。

──なるほど。それが『ビッグファミリーのお父さん』として選手に慕われる理由ですね。

それで言うと私と選手に差はありません。上も下もなくて、同じ人間です。ただ歳を食っていて経験があるから「お前たちの親父代わりになるよ」と。だから時には叱ることもありますが、目的は勝つことであり、みんなから応援されるチームを作ることです。見ている人をワクワクさせる、愛されるチームで勝ちたい。華々しいダンクや3ポイントもいいですが、一つのボールをダイブして取る、そうした選手をみんなが引き起こす、そういうチームでありたいです。そのことは選手にも常々話しています。

技術的にはデーブさんはディフェンスのコーチですから、NKKでやっていたディフェンスプログラムもそうなんですけど、全体像に対しブレイクダウンドリルが全部ぴたっとハマっていくんです。だからアメリカに勉強に行ったというより、デーブさんに教えてもらいに行ったんです。デーブさんがその時にヨーロッパで指導していたら、私はアメリカではなくヨーロッパに行ったはずです。

彼はディビジョン2のカリフォルニア州立大学ドミンゲスヒルズ校からカリフォルニア州立大学ロサンゼルス校に移りました。そこで私が勉強している時も、レイカーズからディフェンスコーチやUCLAのアシスタントコーチで来ないかとオファーが来るんです。相当な格上なのにデーブさんは断るんです。「行くべきじゃないですか」と私は言うんですが、彼は違うんです。「NBAとディビジョン1は勝利至上主義でコーチも選手もどんどんカットされる。ディビジョン2もそういうことはあるし、プロに行く選手もいるけど、ほとんどの選手は社会人になって仕事をする。私はバスケを通して彼らに人生を教えてあげたいんだ」と。その考えは私にぴたりとハマりました。そんなデーブさんの下で1シーズン勉強させてもらい、縁があって東海大に来ました。

東海大で『2つの山』を登る陸川章(後編)「目標に対し努力ができる選手を」